広田はドアのそばに近づきました。しかし、それを開くのにはよほどの勇気がいります。彼はそこに立ちすくんだまま、しばらくためらっていました。するとそのとき、そのドアがひとりでに、すこしずつ開きはじめたではありませんか。中から開いているのです。それを見ると、人々はギョッとしてあとずさりをしました。あのおそろしい妖虫が、曲がった足でドアを開けて、みんなの前に飛び出してくるのだと思ったからです。ドアはみるみる大きく開いていきました。中はまっ暗です。その闇の中からヌーッと出てきたのは、お化けカブトムシではなくて、意外にももうひとりの書生の青木青年でした。
「アッ、青木君か。カブトムシを見なかったか」
高橋さんが、叱りつけるように言いました。
「いいえ、この部屋にはなにもいません」
「きみは、まっ暗な書斎でなにをしていたんだ」
「本棚の本をお借りしに入ったのです。いつでも勝手に読んでいいとおっしゃったものですから。本を探して、電灯を消して出ようとすると、廊下が騒がしくなったので、ちょっと出そびれていたのです」
青木はそう言って、手に持っていた一冊の本を見せました。法律の本でした。
「そうか。それならいいが、しかしおかしいな。広田は、人間ほどの大きさのカブトムシがこの廊下へ入り込んだというのだ。そして、わたしたちと広田とで挟み撃ちにしたわけだから、逃げ道はこの書斎のほかにはない。ところが、きみはなにも見なかったという。どうも不思議だ。念のために書斎の中を調べてみよう」
高橋さんが先頭に立って書斎に入り、スイッチを押して電灯をつけました。広田と壮一君とがそのあとにつづき、青木は本を持ってどこかに立ち去りました。書斎の中にはなにもいませんでした。机の下や本箱のうしろなども十分探しましたが、なにもいないのです。窓を開けて格子を調べてみましたが、どこも壊れてはいません。
「おい、広田君。きみはやっぱり幻でも見たんだろう。もしカブトムシが家の中に入ったのなら、これほど探して見つからないはずがないじゃないか。きみは今夜、どうかしているよ」
高橋さんが苦笑いをして言いました。広田は頭をかきながら、首をかしげるばかりです。しかし広田は、あの怪物が幻だったとはどうしても考えられません。たしかに妖虫が入り込んできたのです。しかもそれが、あっという間に煙のように消えうせてしまったのです。広田はなお諦めきれないように書斎の中をグルグル歩き回っていましたが、ふと大机の前に立ちどまると、その上に広げてある手紙の用紙の束をじっと見つめました。
「あっ、これ、先生がお書きになったのですか」
とんきょうな声に、高橋さんもそこへ近づいて用紙を見ました。
「わたしじゃない。そこには白い用紙が置いてあったばかりだ」
「それじゃあ、やっぱりそうです。あいつが書き残していったのです!」
その用紙には、乱暴な大きな字でつぎのように書きなぐってありました。
『今夜は気づかれたのでこのまま帰る。だが、賢二君はかならずさらってみせるから、そのつもりでいろ』
そしてその文句の下に、子どものいたずらのようなへたな絵で、一匹の黒いカブトムシが描いてありました。
「壮一、これはおまえのいたずらじゃないだろうな」
高橋さんが壮一少年を呼んで、その用紙を読ませました。
「ちがいます。ぼくでも賢ちゃんでも、そんなもの書きません!」
「青木はどうした。まさか青木が書いたのでもあるまいが……」
高橋さんはそう言ってあたりを見回しましたが、書生の青木の姿が見えません。
「青木君、青木君!」
高橋さんの声に応じ、壮一、賢二の二少年も高い声で叫びました。
「青木さーん……」
すると、どこか遠くで、「ハーイ」」という声がして、バタバタと階段を駆け下りる音がしました。やがて青木が、両手で目をこすりながら、そこへやってきました。
そして、夜もふけているのにみんなが書斎に集まっているのを見て、わけがわからないといった顔つきで、キョロキョロしています。
「青木君、どこへ行っていたんだ」
「はい、ぼく、自分の部屋で寝ていました」
「なに、寝ていたって? バカを言うんじゃない。ついさっき、この書棚から本を探して出ていったばかりじゃないか」
「いいえ、ぼくは書斎へ入った覚えはありません。たしかに、自分の部屋で寝ていたのです」
「まさか、きみは眠ったまま歩き回る夢遊病者じゃあるまいな」
「そんなことは、一度もありません」
さあ、わからなくなってきました。青木が本当に寝ていたのだとしたら、さっき書斎から出ていったのは一体何者だったのでしょう。あれは青木とそっくりでした。あんなによく似た別人などいるのでしょうか。読者諸君も考えてみてください。頭のいい読者には、この謎がもう解けたかもしれませんね。これはでたらめではありません。ちゃんと解ける謎なのです。しかし、それを解くのはもう少しあとにしましょう。
◇ 落とし穴 ◇
高橋さんはすぐに、この不思議な出来事を電話で警視庁の捜査課に知らせました。捜査第一課の中村警部とは親しい間柄だったからです。その晩のうちに中村警部が数名の刑事を連れて調べに来てくれましたが、結局なんの手がかりも発見されず、むなしく引き上げるほかはありませんでした。
書生の青木は厳しく調べられましたが、自分の部屋で寝ていたのは嘘ではないことがわかりました。すると、もうひとりの青木は一体何者だったのでしょう。さすがの中村警部にも、それは想像がつかないのでした。中村警部のはからいで、その夜から数名の刑事が高橋さんの家のまわりを絶えず見張ってくれることになり、賢二少年はしばらく学校を休んで家に閉じこもっていることになりました。なにしろ相手はお化けみたいなやつですから、油断はできません。
事件のあった翌日の午後、壮一少年は学校から帰ると、お父さんの部屋へ行って相談を持ちかけました。
「お父さん、ぼく考えてみたんだけど、こういう事件はやっぱり明智小五郎探偵に頼んだほうがいいんじゃないでしょうか。中村警部も偉いけど、明智探偵はもっと偉いんでしょう?」
お父さんはしばらく考えたあとで言いました。
「うん、それもいいだろう。それじゃ、わたしが明智事務所へ電話をかけて都合を聞いたうえで、広田を使に行かせることにしよう。広田なら、わたしたちよりもよく事情を知っているからね」
そう言ってさっそく電話をかけましたが、明智探偵はちょうど事務所にいて、午後四時ごろに来てくれという返事でした。時間を見計らって、広田は自動車に乗って千代田区の明智事務所を訪ねました。玄関のベルを押すと、ひとりの青年が中からドアを開けました。広田が名前を告げると、青年は言いました。
「わかっています。お待ちしていました。どうかこちらへ」
そう言って先導しながら、彼はこう注意してくれました。
「広田さん、今日は用心しないといけませんぜ。うちの先生はひどく不機嫌なんです。さっきから書斎に閉じこもったきりで、お茶を持っていってもぼくを入れてくれないほどですからね」
「小林という有名な少年助手の方がいましたね。あなたは小林君ではないのでしょう?」
と尋ねると、青年は答えました。
「ああ、小林ですか。
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