けれども、誰ひとり教えてくれる者はなく、部屋に閉じこもって何度も何度も描き損ないながら、さんざん苦心をして、ひとつの線の引き方も、ひとつの色の出し方も、みんな自分ひとりで工夫しなければなりません。
併しながら、これは私にとって言わば自由な創造でした。
ユダの神は、あの万物の創造にあたって、私が一羽の鳥、一輪の花を描き終えたときに味わったほどの満足を、果たして感じることができたのでしょうか。
赤と黄とを混ぜて橙色を得たという、ただそれだけのことさえが、私を飛び上がるほど喜ばせました。
兄は案の定、大不機嫌で、折角よくできた絵を机に立てて眺めていると、そばへやってきてわざとめちゃくちゃにけなしたりしましたが、そんなことは喜びと力に満ちたこの小さな造物主の勇気を挫くことはできませんでした。
私は草双紙の遊女やお姫様の着物の色を選び、またその※(※印の箇所:着物の模様などの装飾)の下にひとつの筋を入れ、眉の引き方を変えるなど、いろいろと自分の好みを加えて、そして昔の神様のように、自分のこしらえたものを恋人にして大事に引き出しへしまっておいたりしたのです。
が、一方でその紙の上に創造したこれらの美しいものを、到底現実の世界には見出せそうもないということを思っては、無駄に気をいらだたせたりもしました。
私はまた、唱歌が大好きでした。これも兄がいるときには歌うことを許されなかったので、兄の留守の隙を狙っては、特に晴れた夜など、澄み渡る月の表面をじっと見つめながら、静かに、静かに歌を口ずさむのでした。するといつの間にか涙がまぶたに溜まってきて、月からはチカチカと後光が差しはじめるのでした。
折々に姉のところへ遊びに来る、声のきれいなお友達に歌を教えてもらうこともありました。
私は学校では一番上手でしたが、その人のまろやかで美しい声の前では、どうしても気後れがして、小さな声で後ろからついて歌うだけでした。
それは、お茶ちゃんといつも遊んでいた肘掛け窓のところでのことでした。
青桐の葉が風にさわさわと揺れ、虫が鳴き、五位鷺の群れがガツガツと鳴き渡る夜が多くありました。
……
十
私のなにより嫌いな授業は「修身」でした。
高等科からは掛け図を使うのをやめて教科書を使うことになっていたのですが、どういうわけか表紙は汚れていて、挿絵は下手で、紙質も活字も粗悪な、手に取るだけで気持ちが悪くなるようないい加減な本でした。載っている話といえば、どれもこれも「孝行息子が殿様から褒美をもらった」「正直者が金持ちになった」という筋のものばかりで、しかも味も素っ気もないものばかりでした。
おまけに先生ときたら、ただもう最も下等な意味での「損得勘定」の説明を加えることしか能がなかったので、せっかくの修身の授業は、私を少しも善良にしなかったばかりか、かえってまったく反対の結果さえ引き起こしたのです。
このわずか十一か十二歳の子供のたかが知れた見聞や、自分ひとりの経験に照らしてみても、そんなことはとてもそのまま納得ができるはずがありません。
私は「修身の本なんて、人をだますためのものだ」と思いました。
それゆえ、行儀が悪いと操行点(素行の評価)を引かれるという恐ろしいその時間に、頬杖をついたり、よそ見をしたり、あくびをしたり、鼻歌を歌ったりと、できるだけ行儀を悪くして、抑え難い反感を表しました。
私は学校に入ってから「孝行」という言葉を聞かされたことは、百万遍にもなったでしょう。
さりながら、彼らの説く「孝道」とは、結局のところ「このように命を授かり、このように生き続けていることを無上の幸福として感謝せよ」というものに過ぎません。
そんなものが、私のようにすでに早くから「生きる苦しみ」の味を覚えはじめた子供にとって、何の権威があるというのでしょう。
私はなんとかして、納得のいく説明が聞きたいと思い、ある時、みんなが悪性の腫れ物のように触れることを怖がって、頭から鵜呑みにしている「孝行」について、こんな質問をしました。
「先生、人はなぜ孝行しなければならないのですか」
先生は目を丸くしましたが、
「おなかの空いた時にご飯が食べられるのも、体の具合が悪い時にお薬が飲めるのも、みんなお父様やお母様のおかげです」
と言います。
私「でも、僕はそんなに生きていたいとは思いません」
先生はいよいよまずい顔をして、
「親の恩は山よりも高く、海よりも深いからです」
「でも、僕はそんなことを知らない時の方が、よっぽど孝行でした」
先生はカッとなって、
「孝行の大切さがわかる人は手を挙げなさい」
と言いました。
ひょっとこ面のようなクラスメイトたちは、「われこそは」と言わんばかりにパッと一斉に手を挙げました。この理不尽で卑怯なやり方に対して張り裂けるほどの憤りを感じながらも、さすがに自分ひとりだけが恥ずかしい思いをして顔を赤らめ、手を挙げずにいる私を、みんながジロジロと横目で見るのです。
私は悔しかったけれど、それ以上は一言も言い返すことができず、黙り込んでしまいました。
それからというもの、先生は常にこの「手を挙げさせる」という有効な手段を使って、人の質問の口を封じてしまいました。私はその屈辱を免れるために、修身のある日にはいつも学校を休むようになりました。
十一
ある晩、ふと誘われて少林寺へ遊びに行きました。
寺には貞ちゃんという、学年も級もひとつ下の子がいました。顔見知りではありましたが、友達になるほどの機会も希望もないまま過ぎていたのです。
私は初めての場所だったので、かなりの不安と好奇心を持って、扉のない山門をくぐりました。
そうして見覚えのある閼伽井(あかい)のそばの木犀の陰へ行って、代わる代わる呼んでみると、貞ちゃんはガタガタと内玄関の戸を開けて、私たちを茶の間へ案内してくれました。
家の人はこの珍しいお客さんのために、わざわざ取っておきの吊りランプを出してくれました。それはその頃でさえあまり見かけることのなかった古い型のもので、四方がガラスになっている箱の中にランプを入れる仕組みでした。
私たちは、その上下左右にパッと投げかける明るい光の中で、将棋倒しや道中双六にふけりました。
ふりだしの「日本橋」に鰹売りの絵がついていたことも、「御油(ごゆ)」を「おあぶら」と読み間違えて笑われたことも覚えています。
私は生まれて初めての夜の遊びであったこともあり、子供好きな陽気な人たちが一緒に遊んでくれるのも嬉しくて、初対面にもかかわらず、思いのほかはしゃいで遊びました。
もともと私は病弱であることを盾にして、兄弟の中でも一番寛大に取り扱われていたので、随分とわがままもしていました。それでも、行住坐臥(日常のあらゆる場面)、四方八方に立てられた「制札(禁止事項)」ばかりを気にかけて遊ばなければならず、自分だけの遊び場も持っていませんでした。ゆえに、そんな子供のために開放されたかのような、扉なしの山門の中は、私にとって到底忘れることのできない「自由の天地」であったのです。それがきっかけで、私はそれからというもの、三日に一度は顔を出すようになりました。
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