初級翻訳・風博士 第2話

坂口 安吾

妻は僕の研究を助けてくれる、まさに「地の塩」のような存在でした。蛸博士は、そのことに目をつけたのです。
ああ、千の考えにも一つのミスがあるとは、このことです。
そうです、本当に痛恨のミスでした。
僕はうっかり、蛸博士の頭がハゲているという事実を、妻に教えていなかったのです。そのせいで、不憫な妻はついに蛸博士の甘い言葉にだまされてしまったのです。

そこで皆さん、僕は立ち上がりました。
蛸を倒せ! 蛸博士を葬り去れ。そうだ、あの憎たらしい悪党をこらしめてやるんだ! その一心でした。
だから僕は、毎日その作戦を練り上げました。
皆さんはもう、真っ向勝負では奴のずる賢い策略に勝てないということは、お分かりですよね。
だから今、この地上で唯一の作戦を僕は見つけたのです。
そう、たった一つの作戦です。
僕は固く決意し、鳥打帽(キャスケット)を目深にかぶって顔を隠し、夜の闇に紛れて奴の屋敷に忍び込みました。
僕は長い時間をかけて、錠前に関するあらゆる研究書を読み込んでいました。
そのおかげで、まるで空気のように、奴の寝室へと入り込むことができたのです。
そして皆さん、なんの苦労もなく、あの憎たらしい「カツラ」を僕の手に収めることができました。
皆さん、目の前にあらわになった、あの赤くて毛のない無毛の怪物を目にしたとき、僕は本当に万感の思いが胸に迫り、あふれ出る涙を止めることができませんでした。
皆さん、明日の夜明けには、あの憎たらしい蛸が、ついにその正体をみんなの前でさらけ出すことになるでしょう! 僕は躍るような気持ちでカツラを懐にしまい、再び影のように屋敷を抜け出しました。

しかし皆さん、ああ皆さん……。
僕は負けたのです。
悪知恵が神のようとは、まさにこのこと。ああ、蛸は曲者の中の曲者です。
誰がこの先を見通す神のような計画を予測できたでしょうか。
翌日、奴のハゲ頭は、再びカツラで隠されていたのです。
なんと皆さん、奴はこっそりと別の予備のカツラを隠し持っていたのです。
僕は負けました。
刀は折れ、矢は尽きました。
今の僕の力では、奴のずる賢い計略に勝てないことは明白です。
皆さん、誰かあの蛸を懲らしめてくれる勇士はいませんか。
蛸博士を葬れ! 奴を平和なこの地上から消し去ってくれ! 皆さんは正義を愛していないのですか! ああ、もうどうしようもありません。
それならば、僕のほうから姿を消すことに決めました。

ああ、悲しいことです。
皆さん、偉大な風博士の遺書を読んで、どんなに深く感動されたことでしょう? そして、どんなに激しい怒りを感じられたことでしょう? 僕には、皆さんの気持ちが痛いほどよく分かります。
偉大な風博士は、こうして自殺したのです。
そうです、偉大な風博士は、本当に死んだのです。
あまりに不思議な方法で、しかも遺体を残さないというやり方で行われたために、一部の人々は「これは怪しい」と睨んだのです。
ああ、僕は本当に残念でなりません。
だからこそ僕は、唯一の目撃者として、偉大な風博士の最期の様子を、詳しくお話ししたいと思うのです。

偉大な博士は、とにかくせっかちな人でした。
例えば今、部屋の南西の端にある長椅子に座って本を読んでいると仮定します。
次の瞬間、博士は北東の端にあるひじ掛け椅子に座り込んで、ものすごい勢いでページをめくっているのです。
また、博士は水を飲もうとして、突然コップそのものを飲み込んでしまうこともありました。
皆さん、そのとき、あわただしい後悔の念と一緒に、夕暮れのような静けさがこの書斎を包み込むのを、きっと感じ取れるはずです。
そんなわけで、このあわただしい風潮は、部屋にあるすべての物に影響を与えずにはいられませんでした。
例えば、時計は急いで「十三時」を打ち、礼儀正しいお客さんが遠慮して座ろうとしないときには椅子が激しくカンシャクを起こしてガタガタと鳴り、物が落とす影は、突然太陽に向かって走り出すほどだったのです。こうした狼狽(ろうばい)のすべては、極めて直線的な突風となって入り乱れるため、部屋の中には何本もの飛ぶ矢のような真空が、火花を散らして飛び交うのがいつものことでした。
時には部屋の中央で、一陣の竜巻が博士自身も慌てふためきながら湧き起こることもありました。
その瞬間、偉大なる博士はたびたびこの竜巻に巻き込まれては、拳を振り上げながら忙しなく宙返りをするのでした。

さて、事件が起きた日は、ちょうど偉大なる博士の結婚式に当たる日でした。
花嫁は当時十七歳の、大変美しい少女でした。
偉大なる博士が彼女に目をつけたのは、さすがに偉大なる見識と言わねばなりません。
というのも、この少女は街頭に立って花を売りながら、三日経っても一本の花すら売れなかったにもかかわらず、ただ雲を眺めたり、時折ネオンサインを眺めたりするだけで、悲劇というものに対してあまりに無邪気だったからです。
偉大なる博士や、博士が巻き起こす旋風と対照させるには、これほどふさわしい少女はめったに見当たりません。

僕は、この幸福な結婚式を祝福するために牧師の役を務め、同時に食卓の給仕も引き受ける約束でした。
僕は自分の書斎に祭壇をこしらえ、花嫁と向かい合って正座し、偉大なる博士の到着を待ち構えていたのです。
そうするうちに、夜が明け放たれました。
花嫁はさすがに驚くような軽率な振る舞いはしませんでしたが、僕は内心穏やかではありませんでした。
もしや偉大なる博士が間違えて、別の人に結婚を申し込んでしまったのではないか。
そしてその時、どんな恥をかいて、地球一面に慌ただしい旋風を巻き起こすかもしれない。
僕は花嫁に理由を説明し、車を急がせて恩師の書斎へと駆けつけました。

そして僕は、深く安心したのです。
その時、偉大なる博士は部屋の南西の端にある長椅子に埋もれて、飽きることなく本を読みふけっていたからです。
そして、今まさに北東の端にあるひじ掛け椅子から移動したばかりである証拠に、一陣の突風が北東から南西にかけて、目にしみるほどの矢のような軌跡を描きながら走り抜けていたのです。

「先生、約束の時間が過ぎました」
僕はなるべく偉大なる博士を驚かせないよう、特に静粛なポーズをとって口上を述べたのですが、結果としてそれは偉大なる博士を驚かせるに十分でした。
なぜなら偉大なる博士は、色は褪せていたものの燕尾服を身にまとい、そのうえ膝の上にはシルクハットを載せ、胸のボタンには大変立派なチューリップを挿していたからです。
つまり偉大なる博士は、結婚式を深く期待していたと同時に、深く結婚式を忘れていたという、矛盾した条件を明示していたのです。

「POPOPO!」
偉大なる博士はシルクハットを被り直しました。
そして数秒の間、疑わしげに僕の顔を凝視していましたが、やがて忘れていたことをありありと思い出した深い感動が顔に表れたのです。
「TATATATATAH!」
すでにその瞬間、僕は鋭い叫び声を聞いただけで、偉大なる博士の姿は蹴飛ばされた扉の向こう側に見失っていました。

僕はびっくりして追いかけました。そして奇跡が起きたのは、まさにこの瞬間だったのです。
偉大なる博士の姿は、突然消え失せました。

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