一郎と五年生の耕一(こういち)とは、ちょうど午後二時に授業が終わりましたので、いつものように教室の掃除をして、それから二人一緒に学校の門を出ました。そのとき、二人の頭の中は、昨日の変な子でいっぱいになっていました。
そこで二人はもう一度、あの青山の栗の木まで行って見ようと相談しました。
二人は鞄をきちんと背負い、川を渡って丘をぐんぐん登っていきました。
ところがどうでしょう。
丘の途中の小さな段を一つ越えて、ひょっと上の栗の木を見ますと、たしかにあの赤髪で鼠色のマントを着た変な子が、草に足を投げ出して、黙って空を見上げているのです。
今日こそ、全く間違いありません。
竹煮草は栗の木の左の方でかすかに揺れ、栗の木の影は黒く草の上に落ちています。
その黒い影は、変な子のマントの上にもかかっているのでした。
二人はそこで胸をどきどきさせて、まるで風のように駆け上がりました。
その子は大きな目をしてじっと二人を見ていましたが、逃げようともしなければ笑いもしませんでした。
小さな唇を強そうにきゅっと結んだまま、黙って二人のかけ上がってくるのを見ていました。
二人はやっとその子の前まで来ました。
けれどもあまりに息がはあはあと切れて、すぐには何も言えませんでした。
耕一などは、あまりにもどかしいものだから空に向かって、「ホッホウ!」と叫んで、早く息を吐いてしまおうとしました。
するとその子が口を曲げて、ちょっと笑いました。
一郎がまだはあはあ言いながら、切れ切れに叫びました。
「お前は誰だ。何なんだ、お前は」
するとその子は落ち着いて、まるで大人のようにしっかり答えました。
「風野又三郎(かぜのまたさぶろう)」
「どこの人だ、ロシア人か?」
するとその子は空を向いて、「はあはあはあはあ」と笑い出しました。
その声はまるで鹿の鳴き声のようでした。
それからやっと真面目になって、「又三郎だよ」とぶっきらぼうに返事をしました。
「ああ、風の又三郎か!」一郎と耕一は思わず叫んで、顔を見合わせました。
「だからそう言ったじゃないか」又三郎は少し怒ったように、マントからとがった小さな手を出して、草を一本むしってぷいっと投げつけながら言いました。
「そしたら、あっちこっち飛んで歩くのか?」一郎がたずねました。
「うん」
「面白いか?」と耕一が言いました。
すると風の又三郎はまた笑い出して、空を見ました。
「うん、面白い」
「昨日、何して逃げたんだ?」
「逃げたんじゃないや。昨日は二百十日(にひゃくとおか)だよ。本当なら兄さんたちと一緒に、ずっと北の方へ行ってるんだ」
「何して行かなかったんだ?」
「兄さんが呼びに来なかったからさ」
「お前の兄さんは、なんて名前なんだ?」
「風野又三郎。決まってるじゃないか」又三郎はまた機嫌を悪くしました。
「あ、わかった。うなのお兄さんも風野又三郎、うなのお父さんも風野又三郎、うなの叔父さんも風野又三郎なんだな」と耕一が言いました。
「そうそう。そうだよ。僕はどこへだって行くんだから」
「支那へも行ったのか」
「うん」
「岩手山へも行ったのか」
「岩手山から今来たんじゃないか。昨日の夜は岩手山の谷に泊まったんだよ」
「いいなあ、おらも風になりたいなあ」
すると風の又三郎は、喜んだのなんのって、顔をまるでリンゴのように輝くばかりに赤くしながら、いきなり立ち上がって、キリキリキリッと二、三回かかとでその場で回りました。鼠色のマントがまるでギラギラする白光りに見えました。それから又三郎は座って話し出しました。
「面白かったぞ。今朝の話を聞かせてやろうか。ほら、僕は昨日の朝ここにいたろう」
「あれから岩手山へ行ったな」耕一がたずねました。
「あたりまえさ、あたりまえ」又三郎は口を曲げて耕一を馬鹿にしたような顔をしました。「そう、僕の話に口を入れないで黙っておいで。ね、ほら、昨日の朝、僕はここから北の方へ行ったんだ。途中で六十五回も居眠りをしたんだ」
「何してそんなに昼寝したんだ?」
「仕方ないさ。僕たちが起きて跳ね回っていようとしても、行くところがなくなれば歩けないじゃないか。歩けなくなれば、居眠りさ。決まってるだろ」
「歩けないったって、立っているか座っているかして目を覚ましていればいいじゃないか」
「うるさいなあ。居眠りったって、僕が眠るんじゃないんだよ。お前たちがそう言うんじゃないか。お前たちは、僕らがじっと立ったり座ったりしているのを『風が眠る』と言うんだろう。僕はわざとお前たちにわかるように言ってるんだよ。うるさいなあ。もう僕、行っちまうぞ。黙って聞くんだ。ね、ほら、僕は途中で六十五回居眠りをして、その間考えたり笑ったりして、夜中の一時に岩手山のちょうど三合目についたろう。あそこの小屋にはもう人がいないねえ。僕は小屋のまわりを一遍ぐるっと回ったんだよ。そしてまっ黒な地面をじっと見下ろしていたら、なんだか足元がフラフラするんだ。見ると谷の底がだいぶ空いているんだ。僕らはもう、少しでも空いているところを見たらすぐに走っていかなきゃいけないんだからね、僕はどんどん下りていったんだ。谷底はいいねえ。僕は三本の白樺の木の陰に入って、じっと静かにしていたんだ。朝までお星さまを数えたり、いろいろこれからの面白いことを考えたりしていたんだ。あそこの谷底はいいねえ。そんなに静かじゃないんだけどさ。それは僕の前にまっ黒な崖があってねえ、そこから一晩中ゴロゴロ、カサカサと石のかけらや火山灰のかたまりが崩れて落ちてくるんだ。けれどもじっとその音を聞いているとね、なかなか面白いんだよ。そして今朝、少し明るくなると、その崖がまるで火が燃えているようにまっ赤なんだろう。そうそう、まだ明るくならないうちにね、谷の上の方をまっ赤な火がチラチラチラチラと通っていくんだ。楢(なら)の木や樺(かば)の木が火に透かされて、まるで烏瓜(からすうり)の灯籠のように見えたぜ」
「そうだ。おら去年、烏瓜の灯籠を作ったんだ。そして縁側へ吊るしておいたら、風が吹いて落ちたんだ」と耕一が言いました。
すると又三郎は噴き出してしまいました。
「僕、お前の烏瓜の灯籠を見たよ。あれはきれいだったねえ、だから僕がいきなり突き当たって落としてやったんだ」
「うわあ……」
耕一はただ一言言って、それからなんとも言えない変な顔をしました。又三郎はおかしくておかしくて、まるで喉を波のようにして一生懸命空の方に向いて笑っていましたが、やっとこらえて涙を拭きながら言いました。
「僕、失敬したよ。僕、そのかわり今度いいものを持ってきてあげるよ。お前のところへね、きれいなハコヤナギの木を五本持っていってあげるよ。いいだろう」
耕一はやっと怒るのをやめました。そこで又三郎はまたお話を続けました。
「ね、その谷の上を行く人たちはね、みんな白い着物を着て、一番はじめの人は松明(たいまつ)を持っていたろう。僕、すぐにもう行って見たくて、行って見たくて仕方なかったんだ。けれど、どうしてもまだ歩けないんだろう。そしたらね、そのうちに東の空が少し白くなって、鳥が鳴き出したろう。ね、あそこにはヤブウグイスや岩ツバメやいろいろいるんだ。鳥がチッチクチッチク鳴き出したろう。
初級翻訳・風野又三郎 第2話
宮沢 賢治
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