初級翻訳・神州天馬侠 第75話

吉川 英治

 するとピューッ、ピューッという不気味な笛の音は、たちまち恐ろしい暴風となって、あたり一面の木々の落葉を吹き巻くりました。あれよと見る間に、咲耶子は砂塵を顔に吹きつけられて、「あ――」と眼をつぶされてしまいました。
「おのれ!」
 きらめく懐剣が、ピカッと呂宋兵衛の脇腹をかすめました。
――カラリ、と笛を投げ捨てた呂宋兵衛は、肩に止まった一枚の紅葉を唇にくわえて、プーッと彼女の顔に吹きつけるやいなや、ひらりと舞った紅葉の葉は、飛ぶ間に一片の焔(ほのお)となりました。吹き抜ける風に煽られて、あやし、咲耶子の黒髪にボウと燃えついたのです。
 あっと驚いたのは一瞬の幻覚でした。
 どこからか飛んできた一本の矢が、あやうく呂宋兵衛の耳をかすめ抜けたその瞬間、かれの術気は、パタッと止んだ風とともに破れて、バラバラとかなたを指して逃げ出しました。
 それは、忽然と駆け上がってきた四人の勇士の影を、そこに見たためでしょう。
――逃がすまいと、追いすがる咲耶子に続いて、忍剣は鉄杖をひっさげ、龍太郎は戒刀をひらめかせ、蔦之助は弓に矢をつがえ、小文治は朱柄の槍をしごいて、八方からの必殺の包囲網で、呂宋兵衛を多宝塔の根元までタタタタと追い詰めました。

二

 先ほど、伝令が陣触れをした言葉には、必ず呂宋兵衛を生け捕りにせよという達しがありました。
 けれど、もうこうなっては「騎虎の勢い(勢いに乗って止まれない状態)」です。戒刀を引っさげた龍太郎は、真っ先に背後から飛びかかって、
「奸賊、和田呂宋兵衛! 伊那丸方に去る者ありと知られたる木隠が、その首もらった!」
 と叫び、サッと一陣の太刀風を投げつけました。
「あッ!」
 呂宋兵衛は肝を冷やして、切っ先三寸の先からツウと左へ逃げかわしました。そこへ加賀見忍剣(かがみにんけん)が、鉄杖を真っ向に構えて立ちはだかりました。
「おのれ、極悪の山大名め!」
 真っ二つに砕け散れとばかり、凄まじい一撃を振り下ろします。
 すかさず右側からは巽小文治(たつみこぶんじ)が、大音声で叫びました。
「呂宋兵衛(ろそんべえ)、はや天命は尽きたぞッ!」
 朱色の柄の槍を繰り出すと、その穂先はまつげを焦がさんばかりの鋭さで閃きます。
「ええい、なんの、おのれらごときに!」
 絶体絶命の危機に陥った呂宋兵衛。
 そのとき、トントンと足を踏み止めて腰の大刀を横一文字に抜き放つや、刀身は火を噴き、まるで夜光の珠を散らしたかのような強烈な閃光を放ちました。
「おおっ!」
 四人の勇士は、思わず目を覆いました。
 虚を突かれて飛び退きましたが、これは火遁の術を用いた幻惑の逃げ技であって、本当に刀を抜いたのではなかったのです。
 その隙を逃さず、呂宋兵衛はしめたとばかり、多宝塔の階段へ向かってトントントンと駆け上がりました。
 そこへ、山県蔦之助(やまがたつたのすけ)が狙いすまして放った二の矢。呂宋兵衛はこれを袖で巧みに絡め落とすと、素早く多宝塔の扉に手をかけました。
 この鉄壁の塔に逃げ込み、内側から扉を閉めて防戦する算段です。
 咲耶子も四勇士も「あッ、しまった!」と階段へ追いすがりましたが、呂宋兵衛はそれを尻目に、素早く扉を開けると、風のように塔の中へと姿を吸い込ませました。
 ところが、かれの体が塔の中に隠れるやいなや、漆黒のような闇の中から、とつじょとして声が響きました。
「奸賊(かんぞく)、退きおろう!」
 その声の衝撃に弾き返されるように、呂宋兵衛の体は階段の下までゴロゴロと転げ落ちてきました。
 忍剣をはじめ小文治や龍太郎は、これ幸いとばかりに武器を捨てて呂宋兵衛に折り重なり、歯ぎしりして暴れる奸賊を、高手小手に縛り上げました。
 ――が、いま頭上で響いた声の主はいったい何者か。味方にしては意外だと不思議に思い、ふと見上げた人々は、
「や、わが君!」
 と、驚いて階段の下にひれ伏しました。
「おお、心地よいこと!」
 そのとき、多宝塔の扉を押し開いて悠然と壇上に床几(しょうぎ)を据え、含み笑いをして見下ろしたのは、伊那丸でした。
 白綸子(しろりんず)の着物に紫威(むらさきおどし)の具足、太刀のきらめきも鮮やかです。
 その脇に片膝をついて控えているのは、軍師の小幡民部(おばたみんぶ)でした。
 紺地に無紋の陣羽織をまとい、左の籠手に采配を持ち、銀作りの太刀を背後に長くそらしています。
 兵法には「兵は味方より計る」といいますが、あまりに意外な展開に、龍太郎は呂宋兵衛の縄の端を握りしめたまま、民部に尋ねました。
「今宵は法師野に平陣を敷かれて、そちらにおいでであることとばかり思っておりましたのに、いつの間にこの塔の中へお越しになられたのでございますか」
「大将の陣というものは、あると見ゆるところにはなく、ないと見ゆるところにあるのが常。別に不思議なことではござらぬ」
 民部は言葉少なく答えたのみです。
「いつもながら軍師の妙策、敬服するほかございませぬ。ところで、こやつはいかがいたしましょうか」
「わが君の御意は!」
「そうじゃの……」
 伊那丸はじっと考えて言いました。
「厳重に縛り上げ、ひとまずこの三重の塔の頂上へ括り付けておくのはどうじゃ」
「ともすれば幻術をもって人を惑わす妖賊。陣揃えの準備もございますゆえ、それが上策かもしれませぬ」
「うむ。軍馬を揃えて小太郎山の砦へ引き上げた上は、御旗楯無(みはたたてなし)の宝物のありかも、とくと問い詰めてみねばならぬ。そのあとで、咲耶子に討たせてやるのも遅くはあるまい」
「仰せ、ごもっともです。では皆の衆、呂宋兵衛をこの三重へ引き立て、妖術などで逃げ失せぬよう厳重に警戒せよ」
「はッ、承知いたしました!」
「立てッ!」
 呂宋兵衛を引き立てた四勇士は、多宝塔の三重の頂上まで追い上げ、一室の丸柱に鎖で厳重に縛り付けると、二階・三階へ続く梯子を外し、扉の口々を外から鉄錠で閉ざしてしまいました。

一

 水車は夜通しいつもの音を立てて回り、孟宗藪(もうそうやぶ)の葉の間から、冴えた紺色の夜が明け始めていました。
 燕作(えんさく)の親指で息の根を止められた鞍馬の竹童(たけどう)は、依然として水車小屋の裏崖に、ダラリとぶら下がったまま木の根に絡まり、仰向けに倒れています――
 とはいえ、まだ生死の境にあって完全に死んだわけではないので、体にはいくぶん温みが残っています。笹の小枝から移った小さな白蛇が、その体温に心地よさそうに寄り添い、腕から喉へ銀の輪のように巻き付いたまま、去ることもなく、害を加える様子もありません。
 折しも、法師野の空に三鼓七流の陣鐘が鳴り渡るのを合図として、天地を揺るがすばかりの勝鬨(かちどき)の声が上がりました。それは、人穴の残党を一気に蹴散らし、主将の呂宋兵衛を生け捕りにして、多宝塔の三階に封じ込めた伊那丸の軍兵たちが、夜明けの陣揃えで富士山にたなびく紅い雲を仰ぎ見たとき、三軍が思わず声を合わせてあげた凱歌でした。
その遠くのどよめきが、気絶していた耳にも届いたのか、そのとき竹童は、ピクリと鳩尾(みぞおち)を動かし、少し顔を横に振りました。

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