初級翻訳・神州天馬侠 第86話

吉川 英治

 しかし、京都は徳川家の勢力圏ではありません。どうしても羽柴側に手配を頼みたいという懇願です。事件も人物もただ事ではないため、どう返事をするべきか、三人の旗本たちは口々に相談していました。
「ふむ……勝頼が、か」
 秀吉もこれを聞くと、しばらく目を閉じて考え込んでいましたが、やがて重々しく言いました。
「ほかならぬ徳川殿のお頼みだ、聞いてあげずばなるまい。承知したと返事をしてこい」
「はっ、お伝えいたします」
 平野三十郎だけが立ち上がっていきました。すると、脇坂甚内がすぐに膝を乗り出して言いました。
「承知されたからには、それがしと虎之助殿とで、四郎勝頼の居場所を突き止め、捕らえてまいりましょうか」
「待て待て……」
 秀吉はまだ目を閉じたままでしたが、いつもの調子で言い放ちました。
「もうすぐこの筑前守(秀吉)は伊勢の滝川攻めだ。この準備の最中、死んだはずの勝頼を探す暇など、わしの郎党にはない」
「はっ」
 甚内は全身を震わせて恐れ入りました。
「じゃが、引き受けたことを放り出しておくわけにもいかぬ。この役目は和田呂宋兵衛に申しつける。よいか」
「承知いたしました。すぐ洛中をくまなく調べて、ご前へその者を召し連れてまいります」
「やってみろ。そちには手ごろな探し物じゃ」
 人使いの名人である秀吉は、顔を見た途端に、もう呂宋兵衛をうまく使いこなしていました。
 不思議な大役を言い付けられた呂宋兵衛のほうも、なんだかやる気が湧いてきます。秀吉公への初仕事、ぜひとも捕らえてみせねばと心に誓いました。
 ましてや、武田四郎勝頼――伊那丸の父です。もし事実、天目山で討ち死にしていなかったとすれば、天下の情勢はさらに予測のつかない方向へ進むことになります。

般若丸と謎の僧

一

 里では二月といえば紅梅がほころぶ頃ですが、ここは小太郎山の中腹。西を見ても東を眺めても、駒城の峰や白間ヶ岳など、白く輝く雪山が連なる一面の銀世界です。雪でないものといえば、伊那を流れる三峰川や、甲斐へ注ぐ笛吹川の青い水の流れがあるばかり。
「北国方面へ間者としていった巽小文治(たつみこぶんじ)はどうしたであろうか」
「そういえば、東海道へいった山県蔦之助(やまがたつたのすけ)も、もう戻ってこなければならない時期だが……」
 小太郎山の山懐、石垣を築いて洞窟を掘り、巨木や巨石を積み上げた砦の中は、そこに立てこもっている人々と火気のおかげで、部屋のように暖かでした。
 今、砦の一角で炎々と篝火(かがりび)を焚き、床几(しょうぎ)に腰掛けながらこう話しているのは、忍剣(にんけん)と龍太郎でした。
「二人とも、あまりに日数がかかりすぎる。悪くすると、この雪に道でも踏み違えて凍えてしまったのではあるまいか」
「いや、途中には番卒小屋もあり、村々には味方もいるから、決してそんなはずはない」
「では深入りして、徳川家の連中に生け捕りにされたか」
「蔦之助も小文治も、おめおめと敵の縄にかかるような男ではない……きっと何か大事なことでも探っているのだろう。それより案じられるのは竹童(ちくどう)じゃ」
 龍太郎は眉を曇らせました。「おお、竹童といえば、いったいどこへ行ってしまったのか。ちっとも落ち着きのないやつだ」

「しかしあいつのことだから、かならず愛馬のクロをさがしだして、元気な顔でもどってくるだろう。だが、この厳しい雪や氷の冬を、どこで過ごしているかと思うと、かわいそうでもあり、心配でたまらない……」

 さすがに木隠龍太郎は、兄弟弟子の竹童のことを、一日たりとも忘れてはいませんでした。
 去年の晩秋、人穴城を攻め落として法師野の里で勝利の雄叫びをあげた武田伊那丸は、冬の訪れとともに、幕下の旗本をはじめとする二千の軍兵をひきいて、ひとまずこの小太郎山へ引きあげていたのです。
 しばらくは、この山城で冬ごもりです。
 陣具を整え、武器を研ぎ、英気を養いながら、春の雪解けを待っています。
 大将の伊那丸をはじめ、軍師の民部も、咲耶子も、みんな家族のように仲良く寄り添ってこの冬を越し、新しい春を迎えました。しかし、ただひとり、みんなの人気者である竹童がいないことだけが、何をするにも寂しく感じられていたのです。

 竹童よ、竹童よ。
 おまえはいったいどこにいるのか?

 ああ、クロの行方がわからないように、竹童の便りもいっこうにわからない――と、いまも龍太郎が灰色の空を見上げてため息をついていると、バラバラと、砦の柵の方からひとりの見張りが駆け寄ってきました。

「木隠さま! 加賀見さま!」
「なんじゃ」

 煙の向こうからふたりの声が一緒におうじました。

「ただいま、巽小文治さまと山県蔦之助さまが、ふもとからこちらへ登っておいでになります!」
「おお、帰ってきたか!」

 ふたりはすぐに篝火(かがりび)を離れて立ち上がり、足音を立てて砦の第一の柵まで迎えに駆け出しました。

二

 ここは大将の陣座とあって、豪華ではないものの巨木を組んだ本丸造りになっていました。奥には武田菱の幕が張り巡らされ、その中で、当の武田伊那丸は、いましも軍師・小幡民部から兵法書の講義を受けているところでした。
 そばには咲耶子もいて、氷のように冷たい板敷にきっちりと座り、両手を膝について、つつしんで話を聞いています。

 その時、幕をかき分けて加賀見忍剣が入ってきました。
「わが君」
 と声をかけます。
「おお忍剣、どうした」
「ご講義の最中でございましたか」
「いや、兵学の勉強も、ちょうど終わったところだ」
「では、さきほど帰陣いたしました山県、巽のふたりを、すぐここへ呼んでもよろしゅうございますか」
「おお! 北国と徳川領へ探りに行っていたふたりだな。毎日帰りを待っていた。すぐここへ通せ」
「はっ!」

 幕を下ろして忍剣の姿が消えると、やがてふたたび幕が跳ね上げられ、山県蔦之助と巽小文治、そして龍太郎と忍剣も続いて、伊那丸の前にひざまずきました。

「雪の中の隠密行動、さぞかし難儀したであろう」

 伊那丸はまずふたりの使いをねぎらい、言いました。
「まずは順序として、北国方面の動静を聞きたい。小文治、そちの調べはどうであった」
「はっ」

 威儀を正して、小文治が報告します。
「多宝塔の頂上から、たくみに鷲を使って逃げのびた呂宋兵衛は、どうやら越前北ノ庄を経て、京都へ入り込んだ形跡がございます」
「ううむ、京都へ!」

 小幡民部がうなずきました。
「折しも、裾野にいた鏃鍛冶(やじらかじ)の卜斎も、柴田の家中に引きあげています。北庄城では雪解けとともに、筑前守秀吉と一戦を交える用意を怠っておらず、国境の関所は厳重に固められております」
「なるほど、およその様子はわかった……」

 伊那丸は次に山県蔦之助へ言葉を向けました。
「して、東海道のほうには何か変わりはないか」
「若君――」

 すぐに受けて蔦之助が言いました。
「容易ならぬ噂を聞いてございます」
「なに、容易ならぬ噂だと?」
「また徳川の痩せ武者どもが、この砦へ攻め寄せてくるとでもいうのか?」

 忍剣が気早に肩をそびやかしました。

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