「それとは違って、世にも不思議な噂でござる」
蔦之助は伊那丸の顔を仰ぎ見ながら言いました。
「若君、どうか驚かないで聞いてください。その噂というのは、お家滅亡の折、あえなく討ち死になさったと人も信じ、また我々までもが疑わぬ……四郎勝頼さまのことです」
「おお、父上――その父上がどうしたというのだ!」
「実は討ち死には表向きで、真実は天目山の峰続き、雲峰寺へ一時お隠れになり、世間が静まるのを待たれたうえで、このほど怪しげな旅僧に姿を変え、ひそかに京都へお入りになったそうでございます」
「えっ!」
伊那丸の驚きは、並大抵のものではありませんでした。
勝頼――と父の名を聞いただけで、すでにその瞳は潤み、胸は恋しさに震えていたのです。まだご存命と聞いては、こみあげる恩愛の情がひたひたと胸を打ち、歓喜と驚愕、そしてそれを疑う心の雲が入り乱れるのでした。「では、どういうことだ。父上にはまだご武運が尽きず、旅の僧となって都へ向かわれたというのか――蔦之助、もっと詳しく話してくれ」
「それが、まだ確かなこととは申しあげられませんが、東海道――特に徳川家の中ではもっぱら噂になっております。それゆえ、さらに浜松の城下まで潜り込み、詳しく事実かどうかを探りましたところ、その旅僧を勝頼公本人だと見定めた隠密組の菊池半助が、京都まで追跡に向かったそうでございます」
「うーむ、それならば真実に違いない」
期待に胸を躍らせ、伊那丸の瞳が燃えます。
「意外なこともあるものだ。もし本当に勝頼公がこの世におられるのであれば、武田家の運もまだ尽きてはいない。若君の喜びは言うまでもないが、我々にとってもこれほど嬉しいことはない。しかし……」
そうつぶやきながら軍扇を叩き、深く考え込んでいるのは小幡民部です。しかし、加賀見忍剣や龍太郎、そして咲耶子にいたるまで、皆はこの報告を天からの福音のように受け止め、武田再興の喜びに満ち溢れ、陣屋には春風のような明るい空気が広がりました。
「京都へ行こう! そうだ、すぐに京都へ向かって父上にお目にかかるんだ!」
中でも伊那丸は、幼い頃に別れ、死んだものばかりと思っていた父が生きていると知っては、いても立ってもいられません。
「民部、私はこれよりすぐに京都へ向かう。そして父上をこの小太郎山へお迎えしなければならない」
一刻の猶予もならぬと立ち上がりました。
「しばらくお待ちください」
いつも思慮深い小幡民部が、静かに伊那丸の裾へ寄って両手をつきました。
「民部、そちは私の親孝行を止めるのか」
「どうして止めることがありましょうか。若君のお心、そうなくてはなりません。しかしよくお考えください。そもそも徳川家には策士が多く、嘘や噂話は戦国の世の常。にわかにそれをお信じになるのもいかがなものかと存じます」
「いや、徳川家の菊池半助が、本人と見定めた旅の僧を京都まで追いかけて行ったというのなら、今回の噂は嘘ではないはずだ。万が一、時期を逃して父上が家康の手にでも捕らえられてしまったら、もう助ける術はない。そうなれば、この伊那丸は一生の不孝者になってしまう!」
「おお、それならば致し方がございません……」
さすがの民部にも、それを止めることはできません。彼は道中の危険を案じ、伊那丸自身が遠くへ旅することに危うさを感じていますが、「親孝行」という言葉を遮る道理は、兵法の中にもありませんでした。
にわかに旅の支度が始まりました。旅から旅へと続く道筋は、すべて敵の領土です。もちろん隠密の旅であり、供は加賀見忍剣と木隠龍太郎のふたりに決まりました。
雪を踏みしめる一列の人馬が、蟻のように小さく黒く小太郎山の砦を下っていきました。ふもとの野呂川は富士川へとつながっており、筏(いかだ)に乗り移った伊那丸と忍剣、龍太郎の三人は、そこで見送りの兵を帰すと、雪と水しぶきの銀色の屑を突き抜けて、まっしぐらに東へ東へと下っていきました。
父に会いたい一心で、伊那丸は敵地を抜け、関所をかすめて旅をする苦しさや恐ろしさなど、まったく気になりませんでした。
東海道の裏道を抜けて、主従三人が京都へたどり着いたのは二月の末のことでした。ちょうどその頃、伊勢路一帯は、豊臣秀吉が三万の強軍を動員して、桑名の滝川一益を攻め立てていたため、多羅安楽の山から向こうは、もうもうと戦の埃が舞い上がっていました。
三
伊勢は戦の噂でもちきりですが、京都の空はのどかなものです。公卿の屋敷の土塀には白梅の香りが高く漂い、鴨川の堤には若草が芽吹いています。
その柔らかい草の上に、ぐったりと足を投げ出している少年がいました。時折、川面を見ては寂しげな顔をし、空を仰いではポロポロと涙をこぼしています。
「クロ! クロ! こんなに探している僕を捨てて、どこへ隠れてしまったんだい。クロ、もう一度お前の姿を見せておくれ。僕はお前がいなくて、こんなに寂しいんだぜ! 探しに探して、こんなに疲れ果てているんだぜ!」
鞍馬の竹童は空に向かってこう叫びました。しかし、その訴えに答えてくれるものはおらず、クロの幻影さえも見えてきません。
彼がまたぼんやりと鴨川の流れを見つめていると、往来からこちらへ歩み寄ってきた男が、不意に背中を叩いて言いました。
「おい、お前は竹童じゃないか」
「え?」
少し驚いた顔をしてその男を振り返った竹童は、返事をするよりも早くパッと立ち上がり、愛刀・般若丸の柄に手をかけました。
「おいおい、野暮な真似をするなよ」
男は手をかざして飛び退きながら言いました。
「人の顔を見るとすぐに喧嘩腰になるから、怖くて仕方がないよ。竹童、お前と俺とは何も仇同士じゃあるまいし、そんなにいつまでも根に持つことはないじゃないか」
そうしきりになだめている男は、裾野から落ち延びた者の一人、早足の燕作でした。なぜか、今日にかぎってひどく調子が悪い。
「なあ竹童――いや、竹童さん。そういつまでも怒っているのは野暮ってもんだぜ。呂宋兵衛は落ちぶれたし、人穴城の住人でもなくなった今となっては、お前と俺の間に何の恨みも仇もないだろう。久しぶりに仲よく話でもしようじゃないか」
竹童は純真な少年だ。そう言われてまで、相手を敵視し続ける気にもなれず、意気込んでいた力をふっと抜いて、また元の堤の草の上に腰を下ろした。
「妙なところで会ったもんだな」
燕作もそばへ寄ってきて、こう言った。
「どうして一人で、こんなところにぼんやり座っているんだ? え? やけに元気のない顔じゃないか」
「クロがいなくなったんだ。それでがっかりしているのさ」
「クロ? ……なんだい、そのクロってのは」
「おいらのかわいがっていた大鷲のことさ」
「ああ、なるほどね」
と燕作は手を打って笑った。
「それなら何も心配することはないぜ。泣き虫の蛾次公が、お前のすきをねらって乗りにげしたっていう話だからな」
「そうは言っても行方が知れないんだもの……心配せずにいられるもんか」
「なに、蛾次公のことだ。今にそこら中を飛び回ったあげく、この京都へもやってくるに決まっているさ。
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