龍太郎はあわてて後ろへ馬首をめぐらし、
「待て! 味方だ!」
「竹童だ、撃つな!」
小文治も絶叫しました。
しかし、間に合いませんでした。
プツン! と高い弦の音が、はるか遠くまで響き渡りました。
射手は名人、矢は鷹の石打ち。ヒューッと風を切って飛んだかと思うと、狙いは違わず竹童の胸板へ――。
あっけらかんと口をふいていた竹童は、まつげの先にキラリと鏃(やじり)の光を感じた瞬間に、ヒョイと首をすくめて右手を素早く動かし、稲妻のような早業で名人の矢を掴み止めてしまったのです。
「竹童、見事だ」
矢の飛来にも驚いたし、その褒め言葉にも驚いた竹童は、龍太郎と小文治の姿を見つけて、
「木隠さま。大人のくせに、良くないいたずらをなさいますね」
と、ニッコリ笑いました。
「いや竹童、今のは木隠殿の悪さではない。向こうにいる山県氏の見間違いだから、まあ勘弁してやってくれ」
小文治が言い訳をしていると、蔦之助も遠くからこの様子を見て駆けつけてきました。
そして、今や為朝(ためとも)にも例えられる自分の矢を掴み取るとは、末恐ろしい子だと感心しました。
しかし、当の竹童本人は、末恐ろしいことなど何とも思っていない様子でした。こんな厳しい訓練は、果心居士のそばにいれば、いつも毎日やらされている「いろは」の「い」の字にすぎません。
「ところで龍太郎さま。なによりもまず、うかがいたいのですが、伊那丸さまのお身の上……どうか、その後の様子をくわしく教えていただけますでしょうか」
「うむ。あの夜、若君の孤軍は一度は敵の重囲に落ちいってしまったが、折もよし、人穴城の殿堂からにわかに猛火が燃え上がったので、さすがの呂宋兵衛も間道から逃げ落ちて、残された城内は阿鼻叫喚の落城となった。同時に三河勢も浜松から急命が下って総退軍となったのだ。そのおかげで、味方の勝利と一変したよ」
「それで、ただいまご本陣はどこにあるのですか」
「五湖を前にして、白旗の森一帯に総軍一千あまりの兵が、武具を整えて休戦しておる」
「呂宋兵衛の部下が軍門に降ったので、それで急に味方が増えたわけなんですね」
「そうだ。ところで竹童、おまえは今日までどこにいたのか」
「ちょっと鞍馬へ帰ってみたのですが、お師匠さまの叱言(しこごと)が壁に貼ってあったので、あわててまた舞い戻ってきたんです」
「フーム、では果心先生には、鞍馬の庵室にも姿が見えなかったか」
「いっこうに行方知れずです。また気が向いて、日本中を旅しておいでになるのかもしれませんが、困るのはこの竹童です。先生のお言いつけはやり遂げましたが、今度は何をやっていいのか見当がつきません。龍太郎さま、遊んでいると眠くなりますから、なにか一つ、お役目でもいいつけてくださいな」
龍太郎も自分の手柄話など微塵も口に出さなかったが、竹童もまた、あれほどの大軍功を成し遂げていながら、鼻にもかけず、塵ほどの誇りも見せていない。それどころか、なおも「なにか一役言いつけてくれ」とは。
よいかな竹童、さすがは果心居士が、藜(あかざ)の杖でピシピシとしごき上げた秘蔵弟子である。
二
武田伊那丸や小幡民部、そのほか帷幕(軍の幹部)の者たちが、いまなお白旗に陣を敷いてしきりに焦っている理由は、和田呂宋兵衛の行方がまったく知れないためであった。
人穴城という外郭は焼け落ちたが、中身の魔人たちは残らず逃亡してしまった。丹羽昌仙、吹針の蚕婆(さんば)、穴山残党の佐分利、足助の輩にいたるまで、みな間道から抜け出した形跡がある。しかも、落ちていった先が不明とあっては、真にこの一戦の痛恨事である。
「そこで今日も、咲耶子さまをはじめ忍剣(にんけん)の者たちも、われわれ三名も、八方に馬を飛ばし、木の根、草の根を分けて探しているところだ」
と龍太郎から聞かされた竹童は、話を聞き終えると、こともなげにこう言いました。
「では龍太郎さま、この竹童がちょっと一鞭(ひとむち)あてて見てまいりましょう」
「うむ、なにかおまえに成算があるのか」
「あてはございませんが、そのくらいのことなら、なんの造作もないことです」
「いや、相変わらず小気味のいいやつ。では分かり次第、その場所からこの狼煙(のろし)を三度打ち上げてくれ。こちらでもその用意をして待つことにしているから」
「はい。きっと合図を差し上げます。じゃあ蔦之助さま、小文治さま、これでごめんこうむりますよ」
竹童は、龍太郎から受け取った狼煙筒をふところに納めると、また先ほど出てきた笹薮の中へ、熊の子のように姿を隠してしまいました。
「おや? あんな大言を吐いておいて、どこへ潜り込んでいくのか」
と、こなたにいる三人が眺めていると、折しも金明泉のほとりから一陣の旋風が巻き起こり、天空高く大鷲が舞い上がったのです。
地上にいるときは小粒な竹童も、空へ登ると鷲の毛の一本にも満たず、彼の姿は翼の影に隠れて、いるのかいないのかも分からないほど。鷲そのものもたちまち鳩のごとく小さくなり、雀ほどに薄らぎ、やがて一点の黒い影となって眼界から消えていきました。
雲井に消えた鷲と竹童。甲斐と駿河の二国の境を、ぐるりと見回って進んでいくと、ついにこの法師野(ほうしの)の部落に、和田呂宋兵衛一族の焼け出されどもが弱々しい村人をしいたげている様子を、つぶさに見極めました。
このあたりは野火の煙がないので、竹童が鷲の背から小手をかざして見ると、法師野の山村は手のひらに乗るほどくっきりと見えます。部落の家にはみな人穴城の残党が押し入り、衣食を奪われた善良な村人は、老若男女の別なく裸にされて、森の中に押し込められていました。
真にこれは白昼の大公盗、目も当てられぬ惨状です。
「ちくしょうめ、人穴城で焼け死んだかと思ったら、またこんなところで悪事を働いていやがるな……うぬ、いまに一泡吹かせてやるから覚えていろ」
空の上で、竹童は思わず歯ぎしりをしたのでした。そして、一刻も早くこの状況を伊那丸の本陣へ知らせようと、大空をななめに駆け下りていきました。
そのとき、法師野(ほうしの)の大庄屋・狛(こま)家の屋敷を奪い取り、我がもの顔で居座っていた和田呂宋兵衛(わだ・ろそんべえ)は、腹心の「吹針(ふきばり)の蚕婆(さんば)」や丹羽昌仙(にわ・しょうせん)を連れて、隣接する施無畏寺(せむいじ)へと出かけていました。三重の多宝塔に登り、何か金目の宝物はないかと、あちこちを荒らしまわっていたのです。
ちょうどその時、三重の塔の頂上にいた蚕婆が、朱塗りの欄干からふと向こうを見ると、今まさに竹童の乗った大鷲が、この集落の上をぐるぐると回りながら、別の場所へ飛んでいこうとしているところでした。
「あッ、大変!」
顔色を変えて蚕婆が騒ぎ立てたので、塔の中で宝物をかき回していた呂宋兵衛と昌仙も、何事かと慌てふためいて、細い廻廊の欄干へ飛び出してきました。
見ると、空を舞う黒鷲の翼にひそんでいるのは、呂宋兵衛が骨の髄まで憎んでいる鞍馬の小童(こわっぱ)ではありませんか。
丹羽昌仙はキッと睨みつけ、
「うーむ、あいつめ。伊那丸方の斥候(せっこう)にきおったな!」
と拳を握りしめました。
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