あたりをさぐりながら外へ出ると、夜は四更(しこう)の闇の中だが、空には女菩薩(にょぼさつ)の瞳にも似た、うるわしい春の星がまたたいている。
鳥の巣のように乱れた髪、土にまみれた肩や肘、そして血のにじんだ素足――。
それらあわれな姿をさらす竹童は、星影の下で青く浮き彫りに見えたが、彼自身の目には、たった一粒の春の星さえも映っていない。
見えないがゆえに「見ようとする」という、心の異常な働きが、心眼ともいうべき感覚を全身に鋭く研ぎ澄ませていた。彼は右手につかんだ般若丸を背中に隠しながら、
「蛾次郎……蛾次郎はどこへ行った!」
と、八神殿の石段に沿って、裏宮の方へしのびやかに歩いていく。
おお、その姿のいたましくも恐ろしいことよ。
彼は心の中でこう叫んでいる。
「返せ、クロを! 返せ、クロを! おいらの手から横取りしたあの鷲を返せ、今すぐおいらの手に返せ!」
竹童の目は見えないはずなのに、その一念の力によって、まるで何かを的確に見据えているかのように、彼は歩き出していた。
「出てこい蛾次郎! 泣き虫の腰抜け! 出てこい蛾次郎、どこへ行った!」
よくもよくもクロを奪ったな。よくもさっきは、この竹童を盲とあなどって土塊をぶつけたり、お師匠さまの悪口を叩いたり、鞍馬の竹童を天下のお乞食さまと罵って恥をかかせたな。
おまえはさっき、たいそうな自慢をしていた。いかにも得意げだった。
だが泣き虫蛾次郎よ、人の愛している鷲を奪って乗り回したり、人のダシに使われてもらった金で買い食いをしたり、何の益もなく都の町をうかれ歩いたりして、それが何の自慢になる! それが男の誇りだというのか!
あの秀麗なる神州の美の象徴。富士の裾野に生まれながら、どうしておまえはそんな汚い下司(げす)根性を持っているんだろう。
情けないやつ、意気地のないやつ、怠け者、腰抜け、腑抜け、お天気な少年!
それはみんな、蛾次郎よ! おまえの名だ。
おいらは鞍馬の山育ちだ。だが蛾次郎よ、おいらはおまえのような下卑たやつとは、心の磨き方がちがうんだ。
それに、おいらがこんな乞食のような姿になり、盲になってしまったのも、すべて自分の欲のためではないのだ。甲斐源氏の御曹子、武田伊那丸さまへ忠義をつくすため、また、お師匠のおいいつけを守らんがためしていることだぞ。
おいらは恥じない。
乞食になっても、盲になっても、この竹童の心は八神殿の神々さまや、弓矢八幡がご照覧ある。
罵るものなら罵ってみろ。
鷲を返さぬというならば、男らしくどうどうと竹童の前へたっていいきってみろ! オオこの般若丸の名刀でおのれただ一刀に斬りすててくれるから……
いきどおろしい、竹童の心は湯のごとく沸りたって、こう叫びながら方角もさだめず、裏宮のお堂を巡り、いましも、斎院の前まであるいてきた。
――すると、かれより六、七歩まえを、だれやら、しずかに、ピタピタと足をはこんでいく者がある。
夜はすでに更けしずんで、さまよう者とてあるはずのないこの境内、さては蛾次郎めが、またわれを盲とあなどってからかうつもりだな!
竹童はカッとなって、こう思った。
しかし、かなしいかな目がみえぬ。
すぐそこをピタピタといく跫音(あしおと)を聞くのであるが、ただ一討ちにとびかかってはいかれない。
「おのれ目がみえぬとて、たかのしれた蛾次郎ぐらい、斬って捨てられないでどうするものか」
竹童は、とっさに、地べたへ身をかがませた。
そして、般若丸の太刀を背中にかくし、左の手と膝ではい歩くように、まえなるものの跫音をスルスルとつけてゆく……
一歩――二歩。
さきの者の草履のかかとが、かれの顔へ土をはねかえしてくる近さまで寄りついたので、いまこそと胸おどらした鞍馬の竹童。
猛然と、たつが早いか、ふりかぶった般若丸に風をきらせて、
「覚えたかッ」
とばかり、鉄も切るような一刀、一念の気、盲となってから、それは一そうすさまじいするどさをもって、まえなる人のあり場をねらって、揮りおろした。
二
剣は、空をきって、七、八尺はしった。
あたかも闇なる彗星が、地界へ吸われていったように。
燦然(さんぜん)たる蛍いろの太刀! かかとをあげて、ダッ――と斬りすべっていった竹童の手にそれが持たれている。
「ウウム、無念!」
とさけんだ悲痛な声。
竹童の唇から、血のようにもれて、かれはあやうく突ンのめりそうになった足取りを踏みしめた。
そして、さらに、まえよりはすごい血相で、般若丸の切ッ先を向けなおし、剣を目とし、見えぬ目に、ジリジリと闇をさぐってくる。
針がふれてもピリッと感じるであろう柄手の神経に、なにか、ソロリとさわったものがあったので竹童は、まさしく相手の得物と直覚し、
「エ――エイッ」
身をおどらして斬りかかった。
飛躍は、竹童の得意である。
かつて、かれがまだ鞍馬の山奥にいたころは、朝ごと薪をとりに僧正谷をでて、森林の梢(こずえ)をながめては、丈余(じょうよ)の大木へとびかかって、枯れたる枝をはらい落とした――その練習によるのである。
だが、いままでは剣をもつと剣をつかおうとする気に支配され、棒をもつと棒をつかう心にくらまされて、この呼吸というものが、いつかまったく忘れていた。
いま、かれは無我無心に、相手の脳天をねらってとんだ。
――それは剣法でいう梢斬りともいうべきあざやかなものである。
たれかよく、宙天から斬りさげてくるこの殺剣をのがれ得よう。
ところが――相手は苦もなくかわした。
風のごとく身をひるがえし、さらに持ったるなんらかの得物で、パーンと竹童の般若丸をはらいつけたのである。
と、竹童、思わず両手のしびれに柄をゆるめたので、般若丸は彼の手をはなれて地上におちた。
無手無眼となった竹童は、もう打ってかかるものは、五体そのものよりほかはない。
「おのれッ!」
というと、隼(はやぶさ)のように、相手の胸もとへとびかかって、ムズと襟をつかんだのである。
だが、そのとたんに竹童は、
「あッ――人ちがい!」
といったまま、のけ反るばかりな驚きにうたれた。
いまが今まで、蛾次郎とばかり思って斬りつけていた当の人は、枯巌枯骨(こがんここつ)そのもののような老人であったのだ。
「オオ、ちがった、人ちがいであった。
――どなたかぞんじませぬが飛んでもない無礼をしました。
どうぞかんにんしてくださいまし」
こういうとその老人、枯れ木のような手をのばして、竹童の肩をやさしくかかえこんだ。
「竹童よ」
「えッ……」
見えぬ目をしばたたきつつ、かれは、じぶんの名をあきらかに呼んだ者を、だれかしらとあやしむように、両手でその人の衣服をなでまわした。
「あやまることはない、あやまることはない。
他の者ならあぶなかったが、わしであったからまアよかった……」
「オオ!」
竹童は、こごえていた嬰児(えいじ)が、母のあたたかな乳房へすがりついた時のように、ひしと、ひしと、その人の胸にかじりついて、
「あなたは鞍馬のお師匠さま! オオ、お師匠さまではございませんか」
と、声もからだもふるわせた。「わかったか竹童、いかにもわしは果心居士じゃ。
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