初級翻訳・神州天馬侠 第123話

吉川 英治

だから、その顔を好く者は深く親しみ、忌み嫌う者はまたひどく嫌うのでした。
家康は珍しく酒宴を開いていました。多くの近侍や旗本を相手に、和やかな座談を楽しんでいます。
それが飽きると、鼓の名人である大倉六蔵に鼓を打たせて聞き惚れていました。
そこへ、遅れて酒宴に招かれた菊池半助が末席に座りました。
隠密の者は禄高は高くても士格としては下っ端なので、めったにこのような席に招かれることはありません。
家康は半助の姿をチラリと見ると、
「鼓をやめい」
と盃を取って、
「彼へ」
と、近侍へ取り次がせました。破格の盃をいただいた半助に、周囲の人々は羨望のまなざしを向けました。
「半助のやつ、よほどの手柄を立てたに違いない」と、あちこちでささやき声が聞こえます。
そんな様子をながめながら、家康はさらに彼を近くへ呼び寄せました。
「数日来の働き、まことに過分である」
と、ねぎらいの言葉をかけました。
めったに人を褒めない家康がそう言うのは、非常に珍しいことでした。
「はっ」
とだけ言って、半助は平伏しました。
伊賀衆の中でも隠密の達人とは聞いていましたが、これほどの光栄にあずかるとは。人々の視線は、いよいよ彼と主君の家康に注がれていました。
「して、今回の件で大きな手柄を立てた、和田呂宋兵衛(わだろそひょうえ)はどうしておる」
「せっかくご酒宴にお招きいただきましたが、まだ身分の定まらぬ浪人の身ゆえ、出席は恐れ多いと辞退いたしました。手前の屋敷に留め置いております」
「そうか。野武士にしては、なかなか作法を心得ているものだ。そちの家に食客として置いている間、十分にもてなしてやれ。そのうちに、何か適宜な処置をとってやろう」
「彼が聞きましたら、さぞかしご恩に感泣することでしょう」
「長らく捕らえられなかった武田伊那丸、それに二人の者までを一網打尽にできたのは、ひとえに彼の訴えと、そちの手柄のおかげだ」
「はっ、過分なお言葉、身に余る光栄でございます」
「当日、都田川(みやこだがわ)の刑場で伊那丸を斬る太刀取り役は、呂宋兵衛とそちに申しつけてある。用意万端、手ぬかりはあるまいな?」
「十分、ご奉行と打ち合わせる所存でございます」
「矢来(やらい)や高札、送り駕籠、警護の人数などはどうだ?」
「すべて手配済みでございます」
「当日は噂を聞きつけて、大勢の領民が集まるに違いない。甲賀組、伊賀組の者を残らず狩り出し、あやしい者の見張りにつけておくように」
「変装組を百人ばかり、もう今日のうちに領内へ散らしておきました」
「うむ。では、牢内の武田伊那丸、加賀見忍剣(かがみにんけん)、木隠龍太郎(こがくれりゅうたろう)、その三人を都田川へ引き出し、首を洗って斬るばかりというわけだな」
「御意(ぎょい)。もはや、裾野の雲は晴れました」
「甲斐の情勢を憂うこともこれで終わりだ。心を安らかにして、天下へ旗を掲げることができるというもの。家康にとって伊那丸は恐ろしい癌(がん)であった。幼少とはいえ、彼の行く末は浜松城にとっての呪いだった。それを捕らえ得たのは近ごろの快事だ。いずれ斬刑が済んだ暁には恩賞をとらせるが、その日が来るまでは決して油断するなよ。よいか、半助」

さては、家康がご機嫌だったのは伊那丸が捕らえられたからか――。
一同はうなずき、徳川家のために暗雲が晴れたような心地がしました。城を退去した者たちはこの噂を城下へ伝え、その日が来るのを心待ちにしていました。
軍神・武田信玄が甲山の兵を挙げ、梟雄(きょうゆう)・家康へ乾坤一擲(けんこんいってき)の血戦を挑んだ三方ヶ原。その由緒ある古戦場で、信玄の孫がわずか二人の従者とともに錆びた刀で首を落とされるとは、なんという哀れで皮肉な因縁でしょうか!
気の毒がる声もあれば、心地よげに嘲笑う三河武士もいました。いずれにせよ、春も暮れかかる東海道の辻には、その噂が何とも言えない無情さを漂わせていました。

おのれの首を投げる人

一

澄んだ笛の音が流れてきます。鬼一管(きいちかん)や天彦(あまひこ)といった名笛の音色のようです。何とも言えない調和と余韻があります。とりわけ笛の音は、霧のない月明かりの夜ほど遠くまで響くものです。
ちょうど今夜もそんな晩でした。
場所は白樺の林です。もともと白い模様のある樺の木に、一本一本、青白い月光が横から射し込んでいます。笛の音が途切れた時の静寂と冷気は、まるで深海の底のようでした。
しかし、現実は恐ろしい高地です。小太郎山の中腹、陣馬ヶ原の高原地帯。そこは、伊那丸の留守を預かる民部や蔦之助、小文治たちが、険しい地形を味方につけて立てこもる砦の山でした。
笛は途切れることなく、樺の林をさまよっています。
やがて、そこに人影が動きました。見ればひとりの美少女です。長く垂らした黒髪に、蘭の花を挿していました。
その人影のあとから、何年も朽ちた落葉を踏んで、ガサガサと歩いてくる者がありました。小具足(こぐそく)をまとった武士たちです。七、八本の槍が、月光を乱反射してギラギラと光っていました。
「誰だッ!」
呼びかけると、ひとりの手から黄色い閃光が三角形に放たれました。龕燈(がんどう)の明かりの中に浮かび上がった少女の姿を見ると、
「おお、咲耶子(さやこ)さま――」
と目礼し、武士たちは樺の林を通り過ぎて行きました。砦を見張る番士たちです。その背中を、咲耶子は頼もしい思いで見送りました。眠らずに夜通し、あかつきまでこの砦を見回っている人々の忠実さに、咲耶子は心から感謝しました。
そして、まだこの砦の周りに雪が残っていたころ、山を下りて京都へと向かった伊那丸の身にも、どうぞこの山のように何事もなく無事でありますように――と祈りました。

咲耶子は裾野にいたころから、月の明るい夜に笛を吹きながら歩くのが大好きでした。
この小太郎山に来てからは、特に白樺の林にほのかな蘭の香りが漂う道を静かに歩くのがお気に入りで、今夜も陣馬の搦手(からめて)から、月に誘われて、つい夜が更けるのも忘れて歩き回っていました。

「ああ、ひんやりとしてきたわ。
二子山にかかっていた月が、もうあんなに遠い谷間へ沈んでしまった。
……あまり遅くなっては、きっと民部さまや小文治さまが心配なさるかもしれない……」

そう思いながらも、せっかくの美しい夜道を帰るのは惜しい気がして、ふたたび狛笛(こまぶえ)を手に取り、歌口を湿らせました。
するとどこかで、「びゅうッ」という風のような音がしました。
しかし、白樺の梢はちっとも揺れていません。
野呂川の響きにしては一瞬すぎます。
いや、それは地上の風ではなく、空の高いところをかすめていった音に違いありません。

「なにかしら?」

咲耶子はいそいで林を駆け抜けました。
陣馬の高原には、さまざまな花が露をふくんで、夜の闇の中で眠っています。
ここに立てば、昼間なら東の真正面に富士の銀色に輝く姿や裾野の樹海が一目で見渡せます。西には信濃の山々、北には甲斐の盆地、笛吹川のうねり、村や町、城下の場所まで数え上げることができるのです。

「耳のせいだったのかしら。それとも、やっぱりただの風? ……」

見回した空には、何者の影も見当たりません。

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