初級翻訳・神州天馬侠 第124話

吉川 英治

ただ静かに、月と星が黙りこくっているだけです。
ふたたび、狛笛の音が高く澄んで響きました。
そして咲耶子が、自分の吹く音色にうっとりとして、周囲のことも忘れかけたその時でした。さらにすさまじい一陣の疾風が、月の光をかき分けて、小太郎山の真上を「びゅうッ」と旋回しはじめました。

「オオ!」

咲耶子は笛を唇から離して、高く高く振り上げました。

「――竹童ではないの! 鷲よ! 竹童の乗っている鷲だわ!」

踊り上がるほど叫びましたが、すぐにまた笛を持ちなおし、息いっぱいに空へ向かって高らかに吹き鳴らしました。
砦の灯りは夜の間は完全に隠されているため、重なり合う山の起伏の中で、どれが目指す小太郎山なのか分からず、空を迷っていた鞍馬の竹童も、ようやくその笛の音を聞き当てました。
試しに鷲の上から下界へ向かって、精一杯の声で叫びました。

「咲耶子さまーッ!」

小手をかざして見下ろせば、一面の高原植物が月光と露にキラキラと輝く中、ぽつりと一人の少女の姿がはっきりと立っていました。
少女は笛でこちらを呼んでいます。
竹童もまた声を張り上げました。

「咲耶子さまア! 咲耶子さまアー!」

巨大な波紋を空に描きながら、だんだんと陣馬の地上へ降りてきました。
ただならぬ怪しい影を見つけた砦の番士たちは、驚いてその異変を小幡民部へ知らせました。その夜、自然城の山曲輪(やまくるわ)には、巽小文治(たつみこぶんじ)と山県蔦之助(やまがたつたのすけ)も、虫の知らせか、しきりに伊那丸の安否や、一緒に連れて行った忍剣と龍太郎から何の便りもないことなどを話し合っていたところでした。

二

三方ヶ原を飛び越え、夜の空を急いできた鞍馬の竹童は、こうして小太郎山の同志たちへ、伊那丸の身に起きた急変を伝えました。
彼はその使命を立派に果たしました。
一念を遂げたのです。
けれど、寝耳に水の知らせを聞いた一党の者たちの驚きようは、言葉では言い表せないほどでした。
中でも小幡民部は、その急報を受けるなり、

「ううむ……」

と深くうめき、しばらくの間、何も言葉が出てこないほどでした。
山曲輪の一角にある評定場の扉は、固く閉ざされました。
ひそやかにそこへ集まったのは、もちろん信頼できる仲間たちばかり。民部を中心に、山県蔦之助、巽小文治。
そして竹童はその前で疲れきった体を休め、咲耶子は打ちしおれて、紫蘭の香る黒髪を、赤い獣蝋(じゅうろう)の灯火のそばでうなだれていました。

「竹童」

やがて民部が、重々しい顔を上げて言いました。

「そちが探ってきた若君のご異変、そして都田川の刑場で行われるという時日、決して間違いはないだろうな」
「はい、間違いありません。その刑場を造っている足軽の話や、お小姓が言っていたこともすべてピタリと一致しております」
「すると、今宵ももうすぐ夜が明ける。残された日は明日だけか……」

さすがは甲州流の軍学者、知恵が回る民部といえども、この差し迫った事態にはほとんど困惑した様子で、憂いと苦悩の色がその顔を暗く染めていました。

「若君のご運命がそうなってしまっては、もはや私たちがこの砦を守る意味もありません」

巽小文治は、悲痛な声でそう言いました。「そうだ!」と蔦之助も声を合わせ、悔しそうに言いました。
「こうなれば、砦に残る兵をすべて引き連れて裾野へ下り、怨敵・家康の城地へ向かって、最後の一戦を挑むほかありません!」
 しかし、最後まで言わせず、民部は首を横に振りました。
「その仇討ちの合戦なら、少しも急ぐことはあるまい。いつでもできることだ」
「といって、むなしく手をこまねいていられましょうか!」
「もちろん、何とか知恵を絞らねばならぬ。だが、今から大人数で浜松まで攻め上ったところで、着くころには若君の命はすでに尽きていると思わねばならぬ」
「おお、それもごもっとも……」
 蔦之助はふたたび悶々として黙り込みました。今はただ、民部の頭脳に神のような明智がひらめくことを、じっと祈るよりほかありませんでした。
「ともあれ、若君のご命や、忍剣(にんけん)や龍太郎をいかにして救い出すか。それが目下の最大の問題だ。いたずらに最後の決戦を急いで、千や二千の小勢で東海道を攻め上ったとしても、途中の出城や関所でむなしく討ち死にするのが関の山。それでは、これまで耐え忍んできた苦労も、伊那丸君の志も、すべて水の泡となり、世間の笑いものになるだけだ」
 やはり民部の説は理にかなっていました。あくまで伊那丸を中心とする一党が、その盟主を失ってしまっては、どんな最後の一戦も華々しくはなりえません。どうしても、どんな手段を使ってでも、石に噛みついてでも伊那丸を助け出さねば、戦う意味がないのです。武士道もありません。華やかさとは無縁で、ただ勇気だけで突っ走ることも許されない。それが軍師のつらい立場というものでした。
「ああ、策は一つしかない」やがて、彼は決然と言いました。
「蔦之助殿、小文治殿、すぐに旅の支度を!」
「や、われわれだけで行くのか? 他の味方は?」
「むしろ秘密裏に動くのだ――」
 民部は席を立ち、太刀を腰に差して身支度を始めました。熟考に時間はかけましたが、一度意を決すれば行動は迅速でした。蔦之助と小文治も、急いで袴の紐を締め、脇差を差し、手慣れた弓と朱柄の槍をそばへ引き寄せました。
「民部さま……」
 咲耶子と竹童は、自分たちに指示がないことを少し不満に思い、同じように身支度をしながら、「わたしも行きます」「私も!」と立ち上がりましたが、民部はそれを制しました。
「二人は、どうか砦の留守を頼む。なお、われわれがいない間も、あたかもいるかのように見せかけてくれ。今夜、三人が小太郎山を抜け出したことは、敵にも味方にも決して秘密にしておくように」
 そう言って、評定場の床を上げました。そこには真っ暗な空洞が口を開けていました。峡谷の一方へ低く下っていく隠し通路です。
「では」と、そこへ足を入れながら、民部はもう一度咲耶子と竹童を振り返りました。
「今の頼み、くれぐれも心得てくれよ。なにごとも若君のためだ」
 拒むこともできず、二人は寂しげな目で見送りました。小文治と蔦之助は、目で互いに別れを告げると、民部に続いて黙々と通路へと姿を消しました。ドーンと下から入口がふさがれると、山曲輪の一室にはもう、竹童と咲耶子の二人きりになってしまいました。

 それから二刻(約4時間)ほど経ったころ――。
 味方の目をも忍び、一目散に麓(ふもと)へ走った小幡民部と二人は、夜が白々と明けるころ、麓の馬屋から三頭の駿馬を選び出し、ひらりと鞍にまたがりました。
 見上げれば、たなびく雲の彼方、高い御座(みくら)のような空に富士の姿が雄大にそびえています。民部は鞭を指して呼びかけました。
「両殿!」
「竹童の知らせによると、若君が刑場へ引かれるのは明日の夕方だ。今日一日で裾野から東海道の中ほどまで進めば、その時刻にようやく間に合うだろう。

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