「あれっ?」
独楽を目で追っていた見物たちの視線は、ふわっと宙をさまよった。
一番驚いたのは蛾次郎太夫である。「手の内にあるはずの玉を取られた」という言葉通り、彼はパニックになって「おや、コマは? コマはどこへ行った?」とキョロキョロと見回した。
その時、ふと気づくと、人混みの中から一本の赤い杖がスッと伸び、落ちてくる独楽をその先端で見事に受け止めた。かと思うと、その赤い棒を坂道のようにして器用に独楽を手元へ滑らせ、ひょいと懐へしまいこんでしまった。あまりに小憎らしいほどの早業である。そのまま何食わぬ顔で、向こうへスタスタと歩き去る二人の人影があった。
「おっ?」
群衆はあっけにとられ、蛾次郎は目を丸くしてポカンと口を開けたまま立ち尽くした。
横合いから独楽をすくい取った赤い棒は、朱色の漆を塗った九尺(約二・七メートル)の柄を持つ槍であった。
そして、独楽を懐に入れたのは、白衣を着て刀を腰に差し、道者笠をかぶった六部(諸国を巡る僧)であった。彼は連れの侍から借りていた朱柄の槍を返すと、何やらクスクスと笑い合い、後の騒ぎなど知らぬ顔で、柳の馬場からお堀の方へスタスタと足を早めていった。
二
「ははははは」
人通りの絶えたお堀端まで来ると、朱柄の槍を杖代わりにしていた一方の侍が、声を上げて笑い出した。
「あの鏃(やじり)鍛冶の弟子小僧、さぞかしびっくりしたことだろう」
蛾次郎のあの瞬間の顔つきを思い出しては、また笑った。
いかにも快活な笑い声である。
それは、伊那丸の配下の中でも一番年若い、巽小文治(たつみこぶんじ)だった。
連れの六部は、ニヤリとするだけで口数は少ない。しかし、この薄暗いお堀端の夕闇の中でも、彼が木隠龍太郎(こがくれりゅうたろう)であることは明らかだった。
小文治は何かを待つように時折うしろを振り返り、「だが、どうしたのだろう。まだ追いかけてくる様子がないが」とつぶやいた。
「いや、こちらの歩みが少し早かったから、どこかの辻で見失って狼狽しているのだろう。今にきっと追いかけてくるに違いない」
龍太郎は、お堀端の捨て石を見つけると、そこへゆったりと腰を下ろした。
「けれど蛾次郎のやつ、我々だと知るとかえっておじけづいて、『独楽よりは命が大事だ』と、あのまま泣き寝入りして帰ってしまうのではないか」
「なに、あの小僧は白痴のように見えて小ざかしいところがあるし、利口に見えてどこか抜けている点もある。実に奇妙な性質だ。バカなのか賢いのか、ぼんやりしているのかすばしっこいのか、全くつかみどころがない。我々を恐れているのは確かだが、決して『本物の敵』だとは思われていないことは分かっている。だから、今に空とぼけた顔をして、独楽を取り返しにくるに違いない」
「なるほど」
小文治も槍にすがりながら、蛾次郎という小童について考えてみた。末恐ろしいと言うべきか、末頼もしくないと言うべきか、判断に苦しむような不思議な子供だと思った。
「ところで、あいつは今、卜斎(ぼくさい)に使われて、この躑躅ヶ崎(つつじがさき)の長屋に住んでいる。とすれば、いずれ内部の様子を多少なりとも聞きかじっているはずだ。ここへ来たところを捕まえて、いろいろと後のことを探ってみようと思う。そのためにはまず、この独楽を取り上げておいて、喋るか喋らないかの責め道具(ネタ)にするのさ」「あいつがいかに横着者とはいえ、まだ子供は子供。きっと独楽を返してほしさに、なにもかも白状するに違いない――そう考えて、大人げないとは思いつつも、横からひょいとさらってきたのさ」
「しかし、龍太郎」
「うむ?」
「芸人なら種も仕掛けもあろうが、貴公、どうしてあの独楽を槍の石突き(槍の柄の端の金具)ですくい取ったんだ? あんな離れ業は本職の独楽回しでもできまいと思うが、不思議な隠し芸をお持ちだな」
「なあに、あれは人目をくらませただけのこと」
「ほう……?」
「幼いころ、鞍馬の僧正谷で果心居士から教わった幻術よ。おそらく、あの程度のことなら、弟弟子の竹童にもできるはずだ」
「はははは、そうだったか。ときに竹童といえば……」
「うむ、竹童……」
と龍太郎も同じようにつぶやく。この名が一行の者の口に出るときは、誰の胸にも末の弟を思うような愛情が一致するのも不思議なことだった。
「どうしたろうなあ、竹童は」
いまも悲しげな面持ちで小文治が言う。
「緋おどし谷から里へ逃げた少女の話によれば、咲耶子はこの躑躅ヶ崎へ捕らわれていったとのことだが、竹童の行方については、誰一人として知る者がいない」
「拙者の考えでは、小太郎山を仇に奪われたことを自分一人の責任のように感じて、それを深く恥じ、どこぞへ姿を隠したのだろうと思う」
「竹童とすればそう考えるだろうな」
「ある時期が来るまで、かれはわれわれの前に姿を見せないかもしれない」
「それではなおさら心配になるが」
「どうも仕方がないことだ」
「しかしまた、ことによると、この館に囚人となっている咲耶子を助け出そうという考えで、この甲府に潜伏しているようにも思える」
「うむ、それなら、どこかでわれわれと落ち合う時期もあるだろう」
「どうかそうありたいものだ。勝敗はいくさの常、小太郎山が敵方の手に落ちたのも仕方がないことと、伊那丸さまも諦めておいで遊ばす。また事実は、竹童と咲耶子という幼い者とかよわい少女に、砦の留守を預けたほうが無理だったのじゃ。責めは竹童よりむしろ一行の人々にある。どうかして、かれの無事を知りたいものだが……」
と、話はいつしか沈んだものになってくる。人の力でどうにもならないのは皮肉な運命であり、その運命を案外に狂わせるものは、これまた人力ではどうにもならない「時間」というものである。
竹童と咲耶子を砦に残して、民部そのほかの人々が三方ヶ原へ駆けつけなかったら、あの時の伊那丸の運命はどうなったかわからない。その危急を切り抜けてきたかと思うと、伊那丸を含めて六人が富士の裾野までたどり着いた朝、帰るべき小太郎山の砦に、あの夜明けの落城の煙をゆく手に見たのであった。
たった半日、もしくは半夜の時間の違いで――。
駆けつけて見たところでもう遅い。砦の上には下がり藤の旗指物と、葵の紋が王座を占めて戦勝を誇っている。麓から野呂川の渓谷一帯は、大久保長安の手勢がぎっしりと盾を並べていて、いかに無念と思っても、疲れ切った六人の力ではどうなるはずもなかった。
しかし、伊那丸はわりあいと気力を落とさなかった。自分の落胆や失望が、どれほど忠節な人々の胸に響くかをよく知っているからだ。
「よし、しばらく小太郎山は大久保家へ預けておこう。そして自分たちが次の乾坤一擲(けんこんいってき)に臨む支度のために、一両年、諸国を流浪してみるのも、またよい軍学修業ではないか」
こう言って、小太郎山を捨てたのである。いや、数年のあいだ、仮に敵手へ預けて別れ去る心であった。
旅の途中で、煙草畑に葉を摘んでいる少女に会った。少女はついこのあいだ、緋おどし谷から里へ帰ってきた胡蝶陣の中のひとり。
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