初級翻訳・神州天馬侠 第149話

吉川 英治

「隠密だ、隠密だーッ! 伊那丸の隠密が入り込んできたぞ! 誰か来てくれッ――」
 そこで蛾次郎が大声で叫んだので、竹童はぎょっとして、その悲鳴を封じるべく、思わず脅しに使っていた火独楽を、
「こッ、こいつめ!」
 と、相手の横顔めがけて叩きつけた。
 ひゅうッと火の閃光が走る! 魔力はそれを放った持ち主の怒気を受けて、ブウーンと独楽の心棒に生命力を蘇らせ、蛾次郎の顔へ唸りを上げて襲いかかった。
「ひゃアッ!」
 と抜いたのは錆刀、身をかわして火の閃光を切り払ったが、何の手応えもなく、ジャリン! と再び鳴って踊る火焔の車輪独楽。まるで竹童の手から狐火が振り出されるようだったが、いつもの頓智に似合わず、蛾次郎は懐にある水性の防ぎ独楽に気がつかず、ただ神魔の火焔に錆刀を振って徒に疲れたのは愚の極みだった。
「ええ! オオッ」
 と目パチクリする間もなく、噛みついてくる独楽の閃光に、蛾次郎はヘトヘトになって逃げ回る。その鋭い金輪の火が一つコツンと頭に触れたら最後、肉も骨も持っていかれるのは間違いなかった。それでもまだ、自分の防ぎ独楽に気がつかずに、ただ「こいつはたまらない」と無我夢中。いきなり辺りにあった馬糧をかぶった。
 土龍のように首を突っ込み、積んである藁山へ無我夢中で潜り込む。その途端――ゴツンとなにか尻に当たったような気がしたが、痛くなかったのは首尾よく藁で防いだものだろう――とは蛾次郎の夢中の感覚。藁山に大地震を起こして、向こう側の戸口へ抜け出そうとしたが、さあ、大変だ。
「――南無三!」
 竹童も青ざめた。
 藁が赤くなった! 藁が赤くなった! 積み上げられている馬糧の一面から、雨上がりの火山か、芋屋の竈のように、むっくり……と白い煙がゆらぎ始めた。
 火独楽の焔が燃え移ったのだ。移った先は乾燥した藁であり、屋根裏の高い小屋の木組みは、一瞬にして燃え上がるべくおあつらえ向きにできている。
 ド、ド、ド、ドッと、蛾次郎の悲鳴が小屋の内部を叩き回った。蛾次郎は必死になって出口を探し求めていた。
しかし、火を見たショックで頭が真っ白になっているせいか、七間(約十三メートル)四方ほどの壁の中で、たった一つの出口すらなかなか見つからない。
「そっちじゃない! こっちじゃない!」と叫びながら壁に頭をぶつけ、藁の山に這い上がっては煙にむせて転げ落ちる。
そうやって暴れれば暴れるほど火の粉が散らばり、あちこちからパッと一気に焔が燃え上がった。
「しまった――」
竹童も、もはや蛾次郎と戦っている場合ではなかった。焔に照らされて浮かび上がった出口へと駆け寄り、全身の力を肩に込めて、ドスンと体当たりをした。
だが、戸はガッシリと閉ざされたままで、びくともしない。
今度は横に引く車戸かと両手で試してみたが、ギシッという音がしただけで、一寸たりとも開く気配はなかった。
「おお、これはどういうことだ?」
背後に燃え広がる紅蓮の炎を追い立てられながら、押したり引いたりと全身の力を振り絞ったが、戸は依然として鉄壁のようだった。
そればかりか、そのときふと耳に入ってきたのは、パチパチと爆ぜる火の音ではなく、数十人もの人足が小屋の周囲を嵐のように取り囲む足音だった。
ああ、いけない。
躑躅ヶ崎の館の詰侍たちが、すでにここでの物音を聞きつけて外を固めてしまったに違いない。
そして、不気味に爆ぜる火の音の原因を怪しみながら、中が焼け落ちるのを待っているのだろう。
館側からすれば、いくら何千貫といっても、たかが馬糧を焼くくらいは惜しくはないのだろうが、中から出られなくなった蛾次郎と竹童にとっては死活問題だ。
どこか一箇所でも風穴が開こうものなら、こんがりと焼けた二人の骸骨が、番士たちの六尺棒でかき分けられて探し出されるのは、ほんの瞬間のことだろう。

三

その高楼を「源氏閣」という。
三層造りの屋根、四方の軒、千本廂、垂木、勾欄の外観や、内部の八畳の書院、天井、窓の造りなど、すべてが藤原様式の源氏造りになっている。それだけでなく、金泥の襖には、信玄が今川家から招いた土佐派の名匠による「源氏物語五十四帖」の絵巻が貼り交ぜられており、今に至るまで大久保長安の家臣たちは皆、ここを源氏閣と呼んでいる。
この建物は、甲館の濠の内側、躑躅ヶ崎七殿のうちの「桜雲台」にある千畳敷の広間の東側に建っていた。
さっき――といっても、つい少し前のこと。
蛾次郎が竹童の存在に気づかず、藁小屋で幸せそうにいびきをかいていたころ、この源氏閣の上で、ひとりの女性が忍びやかに横笛を吹いていた。
「おお、あそこが濠の境……」
咲耶子は欄干に寄りかかり、身を乗り出した。
昼間であれば言うまでもなく、甲州盆地が一目で見渡せる場所である。帯のように流れる笛吹川や、遠く信濃との境をなす山々、すぐ目の下には城下の町や辻を行き交う人々の姿まで、豆粒のように見えることだろう。
だが――今は夜明けに近い闇の中。
空は澄んでいるとはいえ、月も雲に隠れ、星明りがあるだけで、ぼんやりとした影以外に下界の様子をはっきりと見分けることはできない。
それでも彼女は、うっすらとした夜霧の底から、ようやくこの城郭の境界をなす外濠の水をかすかに見つけ出した。
しばらくそこをじっと見つめ、横笛をそっと膝に置いた。
「まだ見えないわ」
寂しげにつぶやき、深く考え込む。
「高音を出して吹けば夜回りの侍が目を覚ましてしまうし、今の音色では、あの濠の向こうまでは届かないだろうし……」
そう言いながらも、彼女が待ち焦がれる先で、ポチリと一つの灯りがともった。
北の石門にあたる外濠のあたりだ。
霧ににじんで、その灯影が蛍のように明滅したかと思うと、その光が横に一の字を描いた。
「おお……」
咲耶子は微笑みを浮かべ、遠くの光に注意を向けた。
すると、その灯りは消え、次にやや青みがかった灯りが斜めに、雨のような筋を三度描いた。
続いて――青と赤、二つの灯りが互い違いに、闇に文字を描くかのように素早く動いた。それは軍学に通じる者でさえ意味を解くのが難しい、勘助流の火合図の信号に違いなかった。
「……なるほど、夜明けまでの間に……おお、四十八人が……」
闇に浮かぶ灯の暗号を咲耶子は熱心な目で読んでいたが、突然、風に吹き消されたかのように、青い灯も赤い灯も、同時にパッと消えてしまった。
と――同時に、彼女の耳元で、一陣の強風が虚空から横なぐりに吹き抜けるのを感じた。
そして、躑躅ヶ崎の殿楼や長屋の屋根瓦の波の上へ、バラバラバラバラと、真っ黒な木の葉のような影が、雹のように降り注いできた!
彼女は知らなかった。
自分が濠の向こうへ向けて忍びやかに笛の音を響かせ、その調べが空をゆるやかに流れている間、この源氏閣の上で、まるで酔ったかのように静かに舞っていた怪鳥の存在を。
「あっ――」
初めてその姿を知る。
颯爽と目の前に降りてきたのは、大鷲のクロであった。黒いちぎれ雲のように、彼女の目の前をかすめて奥庭へ降りたかと思うと――地にはとどまらず、また舞い上がってきた。
それは彼女の目には見えず、ただ翼の音でそう感じただけだったが、やがて、もっとはっきりとした音がバサッとして屋根瓦を打ち、あとはシンと静まり返った。

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