初級翻訳・神州天馬侠 第151話

吉川 英治

ではおまえは、お使番になってこの館へ、家康さまの手紙を持ってきたのですね」
「少しも早く石見守さまのお手へお渡ししなければ、役目がすみません。宿直(とのい)の方をお呼びするには、どこから声をかけたものでございましょうか」
と小姓の星川余一はまた膝を立ててあたりを見回しましたが、そんな人を呼ばれては大ごとです。これから夜明けまでのあいだに、咲耶子がなそうとしている計画が破れてしまいます。
といって、ここへ留め置くのも困るし、どうしたものか――と咲耶子がふと考えあぐねていると、「キイッ、キイッ、キイ」と、また三太郎猿が勾欄(こうらん)の上を行ったり来たりしながら、異常なほど慌てた様子で叫び出しました。
「あ、あれっ……」
三太郎の変な鳴き声に、余一も咲耶子も、その時はじめて、夜気の深い館の彼方、外郭のあたりで静かな変化が起こっているのに気がつきました。
それはちょうど、館の北側に続く馬廻り役の長屋の近くのことです。そこに建っている屋根の高い馬糧小屋から、蒸れた蒸籠(せいろ)のように白い煙がスーッと立ち昇っています。
「はて、おかしい?」
不審な目をみはると、余一はたちまち、
「な、なんだろう! あれは?」
お使者の格式を忘れて、とんぼ組の子供らしい口ぶりになっていました。
「火事じゃないかしら」
「おう……本当に」
「火事だ、火事だ、みんな知らないのかなあ。ほら、ほら、ほら! 白い煙がだんだんひどく噴いてくる」
と、三太郎猿と一緒に心配し始めました。

三

一方、馬糧小屋の中では、竹童と蛾次郎がいました。
パチ、パチ、パチ、パチ……
火は藁(わら)の穂を食べるように移っていきます。
むーっと籠もる熱気は刻一刻と高まります。
そして、むせるそばから煙は目や鼻にしみて、防ぎようもありません。カアーッと、赤いガラス越しに見るように小屋全体が真っ赤に染まったかと思うと、火の龍は気味悪く舌をひそめ、暗く真っ黒な渦を巻きました。二人の踊るような影も、煙のなかに見えなくなってしまいました。

もう倒れてしまったのか?

そう思った瞬間、パッと立ち昇る炎の明かりのなかに、二人の姿が黒く浮かび上がりました。竹童は懸命に戸を破ろうとその場を動かず、蛾次郎は夢中になって他の出口を探しているのです。焼け死ぬか、逃げ出せるか――人間が最高の努力を振り絞るその瞬間、二人とも恐ろしいほど無言でした。

するとその時、竹童は自分のうしろで、突然「ヒーッ!」という絶叫を聞きました。見ると、すでに火が回ってしまった蛾次郎が、
「あ熱ッ……あ熱ッ……あ、つつ、つッ……!」
と、着物に燃え移った火を叩きながら、まるで気でも狂ったように逃げ道もわからず、盲目的に柔らかいワラ火の山へと駆け出そうとしています。
「おいッ!」
我を忘れるとは、この時の竹童のことです。
「ばッ、馬鹿ッ。そっちは火だ!」
と、蛾次郎の襟首をつかんで引き留めました。いや、投げ飛ばしたのです。そして彼を地面に転がして、袖や裾に燃え移っている火を消してやると、蛾次郎は煙にむせながら跳ね起きました。今度は竹童と一緒になって、戸を破ろうと必死に力を合わせはじめました。

しかし、出口は相変わらず開きません。二人の命も、もう諦めなければならないのでしょうか。噴き上がった業火は、二人の無駄な努力をあざ笑うかのように、どっしりと黒く焦げたワラ山から、小屋の羽目板をなめつくしています。

「心頭を滅却すれば火もまた涼し」と、快川和尚は恵林寺の楼門で叫びました。負け惜しみではありません。高僧ではない蛾次郎ですら、今は火の熱さを感じなくなっていました。いや、二人はもっと不思議なことを忘れていました。蛾次郎は竹童を、竹童は蛾次郎を、あくまで敵、あくまで仇だと思い合っているはずなのに、その憎しみを一瞬ですっかり忘れてしまったのです。放っておけば一人で火の中に飛び込んで死ぬところを抱き留めたり、お互いの髪や袖に移った火を消し合ったりして、力を合わせて懸命に戸を破ろうとしています。

ああ、竹童と蛾次郎が、一つの目的に向かってこれほど仲良く気を合わせ、必死になっていることが、今日まで一度でもあったでしょうか。とにかく二人は夢中でした。一心不乱で、死に物狂いだったのです。一方が倒れれば、戸を破る力は半分になってしまいます。火に負けるな! この運命を突き破れ! 死ぬな! 死んでくれるな! 言葉にせずとも、そこには協力と援護が生まれていました。裾をあおる炎の熱風よりももっと強い愛を、渾身の力で投げ合っていたのです。

ガラン!
縄が焼け切れたのか、すぐそばへ火の粉を散らして一本の松丸太が落ちてきました。
「オオ、蛾次、これを持て!」
「よしきたッ!」
知恩院の大梵鐘でも撞くように気を揃えて、二人の童子はそれに手をかけました。息と力を合わせるやいなや、
「ええッ!」
「おウッ――!」
ドウン! と戸口へ突っかかりました。
「開いたア!」
まさにそれは暁の声であり、生命の絶叫でした。ガラガラガラッと突然、風と紅蓮の炎が争う下をくぐって、蛾次郎と竹童はほとんど同時に、壊した場所から小屋の外へ、頭の毛の火の粉を払いながら躍り出しました。

必然でした。その一瞬、二人の頭脳には「助かったぞッ!」という歓呼が上がったことでしょう。しかし、結果は同じことでした。ただ業火の地獄から、八寒地獄へ場所を移したにすぎなかったのです。
なぜかといえば、言うまでもなく、最前から小屋の外には、おびただしい人の足音がヒソヒソと囁きながら、嵐の先触れのようにひそかに巡っていたからです。待ち構えていたのでしょう。

不動明王の炎の陣から蹴飛ばされた矜羯羅(こんがら)、制多迦(せいたか)の両童子のように、火だらけになって転がり出た二人を見るやいなや、
「それッ、その者を!」
「やるな!」
とばかりに、一斉に氷雨のような人影が押し寄せました。二度目の仰天です。あっと起き上がろうとしたのも遅すぎました。すでに霜と植えられた龍牙の短刀、もしくは長き秋水のごとき鋭い刀が、晃々たる剣陣を作ってすばやく二人の逃げ道を囲んでしまったのです。

三太郎猿の早飛脚

一

「ありがたい。味方が外で待っていた。館の強い武士たちが駆けつけてくれたんだ」
と喜んだのは、刹那、蛾次郎の生き返ったような気持ちでした。
それとは反対に、
「しまった、もう敵の手が回ったか」
と絶望的な驚きに打たれたのは、とっさの竹童の感じたところでした。いわゆる一難去ってまた一難、もう逃げる術はないものと覚悟を決めたのでした。ところが、その直感はまったく逆でした。手に手に細身の刀や小太刀を持ち、外で待ち構えていた者たちは、館の武士などではなく、黒い覆面をし、黒装束に身を包んだ集団だったのです。
人数はおよそ三、四十人。しかもその全員が、柳の精か、梅の化身かと思うほど声はすずやかで、手も白く、覆面姿には似合わないほどしなやかな姿の者ばかり。どの者も、まるで一人の分身ではないかと思うほど、同じ背格好をしていました。

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