おお、それから鞍馬の竹童も」
「えッ、竹童もか」
宮内は久しぶりに、あの気に入っていた少年のことを心に思い浮かべました。
そしてその竹童も無事にこの館を破って逃げ延びたと卜斎から聞き、敵でも味方でもないけれど、なんとなく嬉しく感じました。
虹色の陽が空高く昇ってきました。
近隣の国々へ噂が漏れては外聞(がいぶん)に関わるということで、昨夜の騒ぎはいっさい秘密にするよう家中へ申し渡しがあり、ほどなくして躑躅ヶ崎(つつじがさき)の一帯は、いつもの平静を取り戻していました。午後には、重なる家臣たちが桜雲台へ集まりました。
けれど、それは昨夜の問題についてではなく、もう日限が切迫してきた御岳山での兵学大講会の奉行を命ぜられた長安の、下準備や手配りについての評議でした。
その公文書を浜松から持参したお小姓とんぼ組の星川余一は、万千代さまへの言い訳として、鷲の行方をつき止めるまで、しばらく長安の詮議を頼りにして、ここへ滞留することになったのです。
鷲といえば――。
余一のほかに誰も見とどけた者はいませんが、源氏閣のてっぺんから姿を消した咲耶子は、いったいどこへ行ったのでしょうか?
クロとともに姿を見えなくしたところから察すれば、竹童の鷲乗りを真似て、空へと舞って逃げたよりほかに考えようがありませんが、あの絵に描いたような美しい振袖姿で、そんな危ない離れ業が果たして首尾よくいったのでしょうか。
いや、心配はあるまい。
かの女も裾野の女性です。山大名の娘なのです。
竹童のすること、蛾次郎でさえやること、余一すら乗りこなしてきた鷲――乗れない道理があるはずもありません。
そうであれば。
とにかく咲耶子の身には、ふたたび、奪われた自由と希望が戻ってきたというわけです。
カアーン……カアーン……カアーン
今日も甲府の町にのどかな鉦の音が響きます。
菊村宮内は同じ日に、卜斎と別れを告げ、花や供物で飾られた笈摺(おいずる)と、輝く秋の陽を背にして、昨日と同じように、地蔵菩薩の愛の旅へと出発していきました。
二
翌日は駒飼(こまかい)から笹子峠を越えます。
甲府を一通り遍歴した宮内は、これから道を東にとって、武蔵の国へ入るつもりです。
これから武蔵へかかる山境は、姥子(うばこ)、鳴滝、大菩薩、小仏、御岳、四顧(しこ)と、山また山を見るばかりの道です。
好きな子供の群れに取りまかれることも、めったにありません。
阿弥陀街道の長い半日で、かなり足の疲れを覚えた宮内は、
「おお、茶店があるな」
立場がわりに駒止めの杭が打ってある、葭簀(よしず)掛けの茶屋を見かけて、
「少し休ませてもらいます……」
と、何気なく立ち寄って、背中の笈(おい)を床几(しょうぎ)の上へ安置すると、土間のうちから荒々しい人声が聞こえてきました。
「女だからって、油断も隙もありやしねえ!」
何事かと思って見ると、街道稼ぎの荷物持ちか馬方らしいならず者がふたり、黒鉄に毛をはやしたような腕をまくりあげて、
「――とんでもねえ言いがかりを吐きやがる。
誰がてめえのような女乞食のビタ銭を、掏(す)ったり抜いたりするバカがあるものか。ものを盗まれましたというなら、もう少し身なりのきれいな人柄が言うことだ。よくてめえの姿や商売と相談してこいッ」
とおそろしい剣幕で怒鳴りつけているのです。
そのふたりの毛むくじゃらのすねのあいだにはさまって、土間へ手をついたまま、わなわなと震えている女は、坂東三十三ヵ所の札をかけ、膝のところへ菅笠と杖とを持った、三十四、五の女房でした。
「いいえ、そう悪くお取りなされては困りますが、たしかに、駒飼の宿の辻堂で、ちょっと帯をしめ直しているあいだに、あなた方おふたりが、足もとへ置いたわたしの金入れをお持ちになって駆け出したのです。悪気はない、ほんのいたずらをなされたのであろうと、ここまで追ってまいったのでございます。
どうぞ、あの金がなくては、これから先の長い旅ができない身の上、かわいそうだと思って、お返しなすってくださいまし」
「この女めッ、だまっていりゃいい気になって、まるで人を盗っ人扱いしやがる」
「どういたしまして、決してそんな大それたことを申すのでは……」
「やかましいやいッ。
てめえがおれたちに金入れを取られたと言い張れば、おれたちは泥棒だ。
よくも人に濡れ衣を着せやがったな」
「あれッ、そのふところに見えます金入れが、たしかに、わたしの持っていた包みでございます」
「とんでもねえことを言うねえ。
こりゃ、おれが甲府の町でさる人から預かってきた金入れだ。
それを見やがってぶっそうな言いがかりを……どっちが白いか黒いか代官所へ出てやるところだが、女巡礼を大の男ふたりで相手にしたと言われるのも名折れだ。
さ、命だけは助けてやるから、サッサと出ていきやがれ」
馬の草鞋にも等しい土足が、無残にも女の肩を激しく蹴りました。
「これ、何を無慈悲なことをなさる」
菊村宮内はわれを忘れて、その女巡礼の身をかばいながら、
「不憫(ふびん)ではござらんか。かような巡礼道の人の持ち物を巻きあげて、それがどれほどおまえたちの幸福になるというのだ。
どうか、そんな手荒なことをせずに返してあげておくれ」
「おやッ」
「こんちくしょうめ」
と、胸毛をむきだして腕まくりをしなおした、ふたりの道中稼ぎ。
「横合いから飛び出しやがって、何をてめえなんぞの知ったことか。
利いたふうな文句をつける以上は、この喧嘩を買って出るつもりか」
「はははは、とんでもないことを。」あなた方を相手にして、腕ずくで争うようなことは、とてもわたしたちにはできません。
「じゃあ引っ込め、引っ込め! 鉦(かね)を叩いて歩くようなやせっぽちの行者め」
「いいえ、引きません」
「これでもかッ!」
いきなり一方の鉄拳が、風を切るような勢いで宮内の横顔を襲いました。
「あぶない」
軽く身をかわした菊村宮内は、その腕をつかみ取ると、
「そんな無茶をしてはいけません。どうか、彼女を許してあげてください。その金財布が、今、あなた方の持ち物でない証拠には、形も色合いも女物ではありませんか」
「ええい、よけいな口を利くな! こうしてくれるッ」
と、両方から腕を伸ばして、襟元をつかみにかかってきます。
宮内は後ろへ押しやられ、あやうく外の葭簀(よしず)につまずきかけましたが、その瞬間、それまで穏やかだった彼の顔色がサッと鋭く変わりました。彼はかかとを踏ん張って腰をひねると、
「えいッ」と、ひとりを矢の先のように投げ飛ばしました。
「野郎ッ」
「兄弟――ッ、仲間のやつらを呼んでこい」
「おうッ」
そう言うと、跳ね起きた一人の男は、ウサギのように茶店の外へ飛び出し、何か大声で向こうの並木へ向かって手を振りました。
すると――見る間に、わらわらと集まってくるではありませんか。どいつもこいつも一癖ありそうな道中の人足たちで、錆びた刀や歩行用の杖を振り回しながら、
「なんだなんだ」
「その野郎か?」
「生意気な鉦叩き虫め! わけはない、その女も一緒に引きずり出して、二本松の枝へ逆さ吊りにしてぶん殴ってやれ!」
理屈も道理もあったものではありません。
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