これが待ちに待った三番太鼓だと知ると、御岳広前の紅葉の間に真っ黒にうずくまっていた数万の群衆が一斉に「ワーッ」と声を上げました。しかし、さすがは霊山の神前、それも厳粛きわまる武神武人の大行事です。おのずと人の襟を正させ、一瞬の後には、まるで山雨が一過して万樹の色が改まったようにシーンと静まり返り、その空気だけが冴え返っていきました。
すると――。
美妙な楽の音が流れてきます。
仰いでみると、神さびた杉木立の御山の、まるで黒髪を分けたように見える高い石段の上から、衣冠を纏った神官、緑衣を纏った伶人、それに続いて大勢の御岳行者が白衣を揃えて粛々と広前へ降りてきました。白木の祭壇には四方に笹の葉がそよぎ、御霊鏡が真昼の太陽のようにまばゆく光っています。
伶人(れいじん)たちが座につき、白衣の行者たちが白い列を壇の下へと広げていきました。
ゆったりとした和笛の音色に導かれ、笙(しょう)、篳篥(ひちりき)、和琴(わごん)の調べが、まるで水のせせらぎのように重なり合って響き渡ります。
祝詞(のりと)をあげ終えた神官は、バサッと幣(ぬさ)を切り、直垂(ひたたれ)の袖をたくし上げました。四方へ弦の音を鳴らす儀式を済ませたあと、紫と白の二色の細かい紙片をつかみ、壇の上から試合の広場へ雪のようにまき散らします。
――この大講会では血を流してはならない!
――この大講会では邪(よこしま)な兵法を用いてはならない!
これは、そんな意味を込めた神域を清める儀式です。
この儀式が終わると同時に、大講会の三日間は、この場所では敵味方の立場を忘れ、恨みや憎しみを捨て去り、たとえ隣国同士で戦争中であっても、三日間は武器を収めて休戦するのが武門の当然の掟とされていました。
黄色い煙が空へとのぼりました。狼火(のろし)です。
群衆の視線がそちらへ吸い寄せられると、静まり返った大地に、カツカツと馬の蹄の音が響き始めました。
三騎の騎馬武者が現れます。
彼らは華やかな甲冑に陣太刀を身につけ、背中には黄、白、赤の母衣(ほろ)をなびかせ、ゆるやかな虹のように場内を一周しました。
これは母衣組目付による試合の番組読み上げで、すべて武田流の作法通りに行われているようです。
さて、いよいよ第一日目の一番試合です。太子流の強弓を操る氏家十左衛門と、大和流の軟弓(なんきゅう)を操る名手・長谷川監物による射術くらべで幕を開けることになりました。
例年であれば築城試合が最初でしたが、「弓こそ兵家の表道具であり、これこそが本筋だ」という意見や、「あまりに信玄公の遺風をまねるのは、徳川家の権威に関わる」という議論があり、総奉行の大久保長安もこの案を採用したのです。
「おお、始まったな」
「ううむ。指をくわえて見ているだけなのは、じれったいな」
忍剣や龍太郎は、底光りのする鋭い眼光をいっそう研ぎ澄ませています。
「冷静に見物していよう」という伊那丸の言葉は、他の人ならともかく、この血気盛んな彼らにとっては、守るのが難しい戒めでした。
特に山県蔦之助は、弓術が自分の専門分野であり、自信を持つ代々木流の弓を久しく手にしておらず、矢をつがえて腕の筋を思う存分伸ばすこともなかったため、人一倍熱心に見入ってしまうのも無理はありません。
「ううむ……」
うなり声を上げながら、胸の中で弦の音を鳴らし、口もきかずに腕をさすり続けているその姿は、他人から見てもなんとも気の毒なほどでした。
虚空に飛んだ栴檀刀(せんだんとう)
一
太子流の作法、大和流の礼射。
それらにはじまり、両派の射術くらべは矢鳴りの音も勇ましく、試合の口火を切りました。
午後を過ぎてからは、西京の大家である大坪道禅による馬術や、母衣流しの見事な演武が行われました。一門の騎士たちが鐙(あぶみ)を鳴らして技を競い、さらに剣道組から数番の手合わせが開始されましたが、すでに夕暮れ時が迫り、その日の御岳は平和のうちに第一日目を終えました。
兵法大講会、二日目。
大衆はみな、この二日目に多大な期待を寄せていました。初日は儀式や作法といった見た目に華やかな演目が多く、期待していたような火花散る激しい試合がなかったからです。
案の定、前日よりもすさまじい群衆の怒濤が、御岳の頂上へと押し寄せました。
武田伊那丸や民部をはじめとする一党の面々や、鞍馬の竹童もまた、その熱風のような空気の中に包まれて、今日はじっと息を殺して見守っています。
清浄な砂が敷き詰められ、塵ひとつ落ちていない試合場の中央に、黒皮の陣羽織をまとった大柄な男と、菖蒲(あやめ)色の陣羽織をまとった一人の若者が、それぞれ西と東の控え所から静かに歩み出しました。
ボーッと陣貝が鳴り響きます。
重々しい太鼓が三段にわたって打ち鳴らされたとき、例の三色の母衣武者が「築城試合、築城試合」と、各控え所へ伝令を伝えました。
黒皮の陣羽織の男は、もと柴田家の浪人・上部八風斎(かみべはっぷうさい)、あだ名は例の「鼻かけ卜斎」で通っている人物です。
菖蒲色の若者は、越後上杉家の家臣で天鼓流の築城家、村上賛之丞(むらかみさんのじょう)でした。
二人は床几(しょうぎ)に腰を下ろして向き合います。
これは武力による試合ではありません。舌の試合、すなわち築城学の論議です。
群衆は目よりも耳を澄ませました。水を打ったように静まり返り、論議の行く末を気にして、咳一つ聞こえません。
鼻かけ卜斎こと上部八風斎は、やおら肩をいからせ、軍扇をいかめしく膝につくと、声を張り上げて言いました。
「築城に四相あり。いかに?」
そう言って、第一の問いを投げかけました。村上賛之丞は、にっこりと微笑んで答えました。
「兵法にこうあります。小川が東にあるのを田沢といい、流れる水が南にあるのを青龍と呼び、西に道があるのを朱雀と名づけ、北に山があるのを玄武、林があるのを白虎と称します」
「では、地形を選ぶ際はどうする?」
「北が高く南が低いのが城を築くのに良い地であり、水は南西にあるのが有利だと信じます」
「三段の嶮(けん)と申すものは?」
「天嶮、地嶮、人嶮のことです」
「山城を見立てるには?」
「土地の性質と水質によるもので、空論では語れません」
そう言ってピシャリと撥ねのけると、今度は賛之丞から卜斎に向かって反撃の問いを浴びせました。
「ではいかがか。例えばこの御岳の山に一城を築くとしたら?」
「もちろん山城だが、頂上は避け、中くらいの高さの場所に郭(くるわ)を構える。梅沢の麓に出丸を築き、大丹波には望楼を置き、多摩の長い流れを堀として、沢井や二俣尾に木戸をそなえれば、武蔵野原に満ちる兵も滅多に落とすことはできまい」
「あいや、しかし!」
賛之丞は一段と声を張り上げて言いました。
「仮に、甲州路から乱入する敵があれば、一手は必ず天目山から仙元の高さを利用して御岳を見下ろすはず。その場合はどうする?」
「陰山陽向(いんざんようこう)の備えがある」
「うむ、その配分は?」
「全山を城地と見なし、十七町を外郭とし、龍眼の地に本丸を築く。虎口(入り口)には八つの門、崖には階段を設け、五行の柱は樹林で隠し、城を見張るやぐらは黒渋で塗り隠す。
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