初級翻訳・神州天馬侠 第6話

吉川 英治

そのせいで留守になった「二の洞門」の入り口から、脱兎(だっと)のごとく飛び出した影があった!
ひとりは黒装束の覆面姿、そしてその後にぴったりと従っていたのは、伊那丸にほかならなかった。
「何者だっ!」
「一の洞門」では、早くもその足音を察知して、ひとりの男が両手を大きく広げて怒鳴りつけた。しかし、鉄球のように凄まじい勢いで飛んできた伊那丸が、ドーンと強烈な一撃を食らわせた。
「うぬっ!」と風をきって山刀の光が閃いた。
しかし、よろめいたその影は、伊那丸の小さな体から鮮やかに投げ飛ばされ、断崖絶壁の暗闇へと飲み込まれていった。
「曲者だ! みんな出てこい!」
覆面の黒装束の人物へも、ほかの野武士たちが襲いかかった。
姿はほっそりとしているのに、その技は実に鮮やかだった。
襲いかかる者たちを次々と投げ飛ばし、すばやく逃げ出そうとしたところを、横合いから飛びついたひとりの野武士がむんずと組みつき、その覆面の顔を間近で見て、
「ああっ、あなたは……!」と、愕然と叫んだ。
顔を見られたと知った覆面の人物は、驚く男を激しく突き飛ばした。
男がよろりと身をかわそうとしたその瞬間、黒装束の腰からサッと閃いた氷のような刃!
男の肩から斜め下に一刀両断に斬り下げた。
――ワッという絶叫とともに、暗闇の中に血煙と生臭いにおいが立ち込めた。
「伊那丸さま!」
黒装束の人物は、手招きをするやいなや、岩つばめのように驚異的な早さで、そこから一気に駆け下りていってしまった。

二

下界を鋭くにらみつけるような大きな月が、人ひとり、鳥一羽の影すらない、広大な裾野の空の一角で、夜の静寂(しじま)を守っている。
その広々とした野原の一本杉には、一匹の白い馬がつながれていた。
馬は寂しがることもなく、月の光を浴びながら、のんきに青すすきを食べている。
いっさんに駆けつけてきた黒装束の人物は、白馬のそばに来るとピタッと足をとめ、
「伊那丸さま、もうここまでくれば大丈夫です」
と、あとからついてきた影へと振り返って手を差し伸べた。
「ありがとうございました」
伊那丸は、ほっと胸をなで下ろし、夢心地から覚めたように、目の前にいる不思議な黒装束の義人の姿を初めて落ち着いて眺めた。しかし、その人はちょうど背中側から月の光を浴びていたため、顔立ちはよく見えなかった。
「もう大丈夫です。これからこの野馬に乗って、夜が明けるまでに富士川の下までお送りしてあげますから、そこから駿府へ出て、どこへなりとも身を隠しなさいまし。ここに関所を通れる通行手形もありますから……」
と、黒装束の人物が差し出した手形を見て、伊那丸はますます驚きを隠せませんでした。
「いったい、そなたは誰でござりますか」
「誰であろうと、そんなことはどうでもよいではありませんか。さあ、早く、こちらへ」
と白馬の手綱を引き寄せたとき、初めて月に照らされた覆面のまなざしを見た伊那丸は、思わず大きな声を上げました。
「や! そなたはさっきの娘、咲耶子ではないか!」
「お分かりになりましたか……」涼やかな瞳にちらと笑みを浮かべ、その場に両手をつきながら、
「どうかお許しくださいませ。父の無礼は、どうか私に免じてご勘弁くださいませ……」と、申し訳なさそうに謝りました。
「では、そなたは小角の娘だったのか」
「はい。父のやり方は間違っております。そのおわびに、こっそり鍵を持ち出してあなたをお助けしたのです。伊那丸さま、あなたの噂は私も前から聞いておりました。どうぞお身を大切にして、輝かしい人生をおつくりくださいませ」
「忘れません……」
伊那丸は、神様のように美しい少女の深い心遣いに心を打たれ、思わずホロリと熱い涙を袖の中に隠しました。
すると、咲耶子は突然立ち上がりました。
「あ――いけない!」と顔色を変えて叫びました。
「何です?」
伊那丸も彼女が向いたほうを見ると、藍色の月の空へ向かって、一本の細い火薬の矢がツツツツーと走り上がって、やがて消えました。
「あの火は、この裾野一帯の森や河原にいる野武士たちへ、合図を送る知らせです。父は、あなたが逃げたことに気づいたようです。さあ、早くこの馬に!
……抜け道は私がよく知っていますから、急ぎさえすれば心配はいりません!」
と急かして、伊那丸を乗せたあとから、自分もひらりと前に飛び乗り、手際よく手綱をさばきました。
その時、すでにうしろの方からは、まるで百足(むかで)のように連なった松明(たいまつ)が、山峡の闇の中から月をあぶり出すように、こちらに向かって近づいてくるのが見え始めました。
「おお、もう近い!」
咲耶子はピシリッと馬に一鞭あてました。
一声高く嘶いた馬は、矢よりも早くすスキの波を切り裂き、まっしぐらに南の方角へ向かって飛び出していきました――。

二

それよりも前の、夕暮れ時のことでした。
夕陽がうすれかけた湖の波をザッザと音を立ててかき分け、陸へ向かって泳いでくるものがありました。
湖の主である山椒魚(さんしょううお)かと思いきや、水音を立てて這い上がってきたのはひとりの若僧――あの忍剣でした。
岸辺にどっかりと体を降ろすと、忍剣はすぐに衣を破って、左の肘の矢傷をキリキリと強く巻き締めました。
そしてすぐさま身を翻して白旗の宮へ駆けつけてみましたが、伊那丸の姿はなく、ただ自分の鉄杖だけが立てかけられたまま残されていました。
「若さま――、伊那丸さまア――!」
二度三度と声高らかに呼んでみましたが、寂しい木霊(こだま)が返ってくるばかりです。
それらしい人の影も、あたりにはまったく見当たりません。
「さては……」
忍剣は暗澹(あんたん)たる気持ちになりました。
湖水の真ん中へ出たとき、不意に矢を乱射したやつの仕業に違いありません。
小さなくりぬき舟だったため、矢をかわした弾みに転覆してしまい、石櫃(いしびつ)は確実に湖の底へ沈めてしまいましたが、伊那丸の身を何者かに奪われてしまっては、あの宝物も永遠にこの湖から世に出す機会を失うことになってしまいます。
「ともあれ、こうしてはいられない。命にかけても、お行方をさがさねばならぬ」
鉄杖を引っ掴んだ忍剣は、あたり一面に血眼を配りながら、湖水の岸やあちらこちらの森をくまなく探し歩いた末に、どこへ抜けるとも知れない松並木を通りかかると――いた! 二、三町ばかり先を、白い影がとぼとぼと歩いています。
「オーイ!」
と手を上げながら駆け出していきましたが、半町ほどの距離に近づいたところで、ふとその影を見失ってしまいました。
「はてな、ここは一本道だというのに……」
小首をかしげて辺りを見回していると、なんということでしょう、いつの間にかまた三町も先にその影が歩いているのです。
「こりゃあおかしい。
伊那丸さまではなさそうだが、あやしいやつだ。一つつかまえて問い詰めてやろう」
と宙を飛ぶように追いかけていくうちに、また先の者が見えなくなります。
足を止めるとまた見えるのです。
さすがの忍剣も少し疲れ果て、どっかりと道の木の根に腰を下ろして汗をぬぐいました。
「どうも妙なやつだ。人間の足とは思えないほどの早さだ。

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