『あたしね、この中に入ってめんどりさんにキスをして、きのうのおわびをしようと思ったの。でも、お父さんにはどうしても、そのことが言えなかったのよ!』
それを聞くと、父親はその無邪気でかわいい子のひたいに、優しくキスをしてやりました。
わたしも、その子の瞳と口に、そっとキスをしてあげたのですよ」
第三夜
「ここのすぐ近くの、せまい小路でのことです――そこはとてもせまいので、わたしは家の壁にそって、ほんの一分間しか光を届けることができません。
でもその一分間で、わたしはそこで動いている世間の様子を知るのに十分なものを見るのです。わたしは、ひとりの女を見ました。
十六年前、この女はまだ子供でした。
田舎にある古い牧師の家の庭で遊んでいたのです。
バラの生垣はもう古くなって、花ざかりをすぎていましたが、道の外まで生い茂り、長い枝をリンゴの木立の中までのばしていました。
まだあちこちに花は残っていましたが、花の女王と呼ぶには少し物足りない美しさでした。
それでも、色もあり、香りもありました。
しかしわたしには、牧師の小さな娘のほうが、ずっと美しいバラの花のように思われました。
その娘は、のびきった生垣の下の足台に腰かけて、厚紙でこしらえた人形のへこんだ頬に、キスをして遊んでいたのです。
それから十年たって、わたしはまたその娘を見ました。
こんどは、華やかな舞踏室にいる姿でした。
そのときは、あるお金持ちの商人の、美しい花嫁になっていたのです。
わたしは娘の幸せを喜び、静かな夜ごとに訪ねていきました。
ああ、それにしても、だれひとりとして、わたしの明るい眼差しと、わたしが見つめているということに気づいてくれる者はいません! わたしのバラの花も、牧師の家の庭のバラと同じように、ずんずん若枝をのばしていきました。
日常の生活にも、悲劇は潜んでいます。
今夜、わたしはその最後の一幕を見たのです。
あのせまい小路で、その女は死の病にとりつかれて、寝台の上に横たわっていたのです。ところが、その女の主人は、ただひとりの保護者であるはずなのに、乱暴で、冷酷な悪人でした。彼は女のふとんをひきはがして、こう言いました。
「起きろ! おまえの顔を見りゃ、だれだっていやんなっちまうよ! さあ、おめかしでもしろ! 金をかせぐんだ! さもなきゃ、外へおっぽりだすぞ! さっさと、起きろ、起きろ!」
「死神が、わたしの胸の中にいるんです!」と、その女は言いました。
「ああ、どうか休ませてください!」
それでも、男は女をひきずり起こして、顔にお化粧をし、髪にバラの花をさして、窓ぎわに座らせました。
それから、火の燃えている明かりをすぐそばへ置いて、出ていきました。
わたしは、女をじっと見つめていました。
女は身動きもしないで、座っていました。
すると、手が膝の上にだらりと落ちました。
風のために窓がはねかえって、窓ガラスが一枚、ガシャンと割れました。
けれども、女はじっと座っていました。
カーテンが女のまわりを、炎のように激しくはためかせました。
女は、もう死んでいたのです。
あけはなたれた窓から、死んだ女が、人間の生きざまを語りかけているようでした。
牧師の家の庭の、あのわたしのバラの花が!
第四夜
「わたしは、今夜、ドイツの喜劇を見てきました」と、月が言いました。
「それは、ある小さな町でのことでした。
馬小屋を改造して芝居小屋にしていたのです。
つまり、馬をつなぐ仕切りはそのまま残してあって、それを飾りたてて、見物客の席にしてあったのです。そして木造のところは、どこもかしこも色とりどりの紙で飾りつけられていました。
低い天井からは、小さな鉄のシャンデリアが下がっていました。
その上には桶が一つさかさまにはめこまれていて、まるで大きな劇場のように、プロンプターがベルを『リーン、リーン』と鳴らすのを合図に、その桶の中にシャンデリアが引き上げられるようになっていました。
『リーン、リーン』と鳴ると、小さな鉄のシャンデリアが、三、四十センチほど跳ねあがりました。
こうして、喜劇が始まることになったのです。
旅の途中のある若い公爵が、奥方といっしょに、ちょうどこの町を通りかかって、きょうの芝居を見物にきていました。
そのため、小屋は人でいっぱいでしたが、ただシャンデリアの下だけは小さな噴火口のようになっていました。
そこには、ろうそくの火が『ポタリ、ポタリ』と落ちてくるので、だれも座る人がなかったのです。
わたしは、なにもかもを眺めました。
というのも、小屋の中がひどく蒸し暑かったので、壁の小窓という小窓を、あけはなしておかずにはいられなかったからです。
そしてどの小窓の外からも、若い男や女が中をのぞきこんでいました。
もっとも、中には警官がいて、棒で追い払ってはいましたけれど。
オーケストラのすぐそばに、若い公爵夫妻が、二つの古い肘掛け椅子に腰かけているのが見えました。
いつもなら、この席には町長夫妻が座ることになっていたのですが、今夜ばかりは、ほかの町の人たちと同じように、木のベンチに座らなければなりませんでした。
『まあ、どうでしょう。タカがタカに追われたというものですわね!』と、奥さんたちが小声で話しあっていました。
なにもかもが、そのおかげで、いっそうお祭りらしくなっていました。
シャンデリアがおどりあがりました。
のぞいている連中は、指をぶたれました。
そうしてわたしは――そうです、この月のわたしは、喜劇のすべてをいっしょに楽しんだのですよ」
第五夜
「きのう」と、月が言いました。
「わたしは騒がしいパリを見おろしていました。
わたしの眼は、ルーブル宮殿の中のあちこちの部屋へと入りこんでいきました。
みすぼらしい身なりをした、ひとりの年とったお婆さんが――このお婆さんは貧しい暮らしをしている人でした――身分の低い番人の後について、がらんとした大きな玉座の間に入ってきました。
お婆さんはこの広間を見たかったのです。どうしても見ないではいられなかったのです。
お婆さんがこの部屋までくるのには、なんどもなんども、ちょっとした贈り物をしたり、言葉をつくして頼みこんだりしたのでした。
お婆さんはやせこけた手を合せて、まるで教会の中にでもいるように、うやうやしくあたりを見まわしました。
『ここだったんだ!』と、お婆さんは言いました。
『ここだ!』
こう言って、金の縁飾りのついている、立派なビロードの垂れさがった玉座に近づいて行きました。
『そこだ、そこだ!』とお婆さんは言いました。
そして膝をついて、まっかなじゅうたんにキスをしました。
――お婆さんは泣いていたと思います。
『これはその時のビロードじゃなかったんだよ』と、番人は言いました。
そう言う番人の口もとには、微笑がただよっていました。
『でも、ここでしたよ!』と、お婆さんは言いました。」「こんなふうだったんですもの!」
「そんなふうだったのかもしれないが」と、番人は答えました。
「そうじゃない。
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