「あそこは気持ちのいい夏のテントだからね」と、妻は言いました。
「あそこならアザラシも何千となく跳ね回っているし、足元にはセイウチが眠っているんだもの。漁はたしかだし、きっと楽しいはずよ!」
それから、子供たちは泣き悲しみながら、窓に張ってあった皮を引きちぎりました。こうして瀕死の病人を海へ、大波がうねっている海へと連れ出そうというのです。その海こそは、生きているあいだはこの男に食べ物を与え、いまは、死んでから後の安息を与える場所なのです。墓標となるのは、夜となく昼となくたえず形を変えながらただよっている氷山です。その氷塊の上ではアザラシがまどろみ、海ツバメはその上を飛び越えて行くのです。
第十夜
「わたしはひとりの老嬢を知っていました」と、月が言いました。
「この人は冬になると、いつも黄色いしゅすの外套を着ていましたが、それは決まって新しいものでした。それがこの人にとっての、ただ一つの流行だったのです。夏には、いつも同じ麦わら帽子をかぶっていました。そして、同じ青灰色の着物を着ていたような気がします。この人は通りを隔てた向かいにいる、ひとりの年とった女友だちのところへ出かけて行くだけでした。けれども、その友だちも死んでしまいましたので、去年はそれさえもしませんでした。わたしの老嬢はいつもひとりぼっちで、窓の内側で立ち働いていました。そこには夏じゅう美しい花が咲き、冬には毛織の帽子の上にきれいなタガラシが飾ってありました。ところが先月は、この人はもう窓際に座っていませんでした。でも、まだ生きてはいたのです。わたしには、それがよくわかっているのです。というのは、この人があの女友だちとよく話していた『大旅行』に出かけるのを、わたしはまだ見ていなかったからです。
『そうよ』と、そのとき、この人は言っていました。『わたしはいつか死んだら、一生のうちにしたよりもずっと大きな旅行をするのよ。ここから六マイル離れたところに、わたしの家の墓地があるわ。そこへわたしは運ばれていって、親類の人たちといっしょに眠るのよ』
ゆうべ、その家の前に一台の車がとまりました。人々は一つの棺を運び出しました。それでわたしは、あの人が死んだことを知りました。人々は棺のまわりにわらを敷きつめました。それから、車は動き出しました。そこには、去年一度も家から出たことのない老嬢が、静かに眠っていました。車はまるで楽しい旅にでも出かけるように、すばらしい勢いで町から出て行きました。国道に出ると、いっそう早くなりました。御者は二、三度そっとうしろを振り返りました。もしかしたらあの人が、黄色いしゅすの外套を着て、棺の上に座ってはいはしないかと、心配しているようでした。そのため御者はめちゃめちゃに馬に鞭をあてたり、手綱をぐっと引きしぼったりしました。それで、馬はふうふうと泡をふきだしていました。馬は若くて元気でした。ウサギが一匹、道を横切りました。馬はまっしぐらに走って行きました。もの静かな老嬢は、生きているときは、年がら年中家の中の同じ場所だけをゆっくりと動きまわっていましたのに、死んだいまとなって、この広々とした国道を真一文字に走って行くのでした。わらのむしろで包んであった棺が跳ね上がって、道の上に落っこちました。ところが、馬と御者と車とは、そんなことにはかまわずに、荒れ狂ったように駆け去ってしまいました。ヒバリが歌いながら野から舞いあがって、棺の上のほうで朝の歌をさえずりました。それから、棺の上にとまって、くちばしでむしろをつつきました。その様子は、まるでさなぎを裂き破ろうとでもしているようでした。それからヒバリは、ふたたび歌いながら、大空に舞い上がりました。そしてわたしは、赤い朝雲のうしろに引き下がったのです」
第十一夜
「婚礼の祝宴がありました」と、月が話しました。
「歌がうたわれ、健康を祝ってさかずきがあげられました。すべてが豊かで、華やかでした。お客たちも帰っていきました。もう真夜中をすぎていました。母親たちは花婿と花嫁にキスをしました。わたしは、花婿と花嫁がふたりだけになったのを見ました。けれども、カーテンがほとんどすっかり引かれていて、ランプがこの楽しい部屋を照らしていました。
『みんな帰ってくれてありがたい!』と、花婿は言って、花嫁の両手と唇にキスをしました。花嫁はほほえみ、そして泣きました」蓮の花が流れる水の上に休らうように、ふるえながら花婿の胸に頭をもたせて、ふたりはやさしい幸福な言葉をささやきあいました。
「ぐっすりおやすみ」と、花婿は言いました。
花嫁はカーテンをわきへ引きよせました。
「まあ、なんてきれいなお月さまなんでしょう!」と、花嫁が言いました。
「ごらんなさいな、あんなに静かで、あんなに明るいわ!」それからランプを消しました。
楽しい部屋の中はまっくらになりました。
しかしわたしの光は、花婿の眼が輝いていたように、輝いていました。
――女性よ、詩人が生命の神秘をうたうときには、その竪琴にキスをなさい!」
第十二夜
「わたしはポンペーの一つの光景をきみに話してあげましょう」と、月が言いました。
「わたしは『墓場通り』といわれている郊外にいました。
そこには美しい記念碑がいくつか立っています。
そのむかし狂喜した若者たちが、ひたいにバラの花を巻いて、美しいライスの姉妹たちと踊ったところです。
いま、そこは死んだように静まりかえっていました。
ナポリに勤務しているドイツ兵が警備にあたっていて、トランプやさいころ遊びをやっていました。
外国人の一団が警備兵につきそわれて、山の向うから町の中へはいってきました。
この人たちは、わたしの照り輝く光の中で、墓の中からよみがえった都市を見ようと思ったのです。
そこでわたしは、広い熔岩をしきつめた街路にのこっている車輪の跡を見せてやりました。
それからまた、戸口に書いてある名前や、昔のままにかかっている看板を見せてやったりしました。
その人たちは、小さい中庭では貝がらで飾られた噴水受けの水盤を見ました。
しかし、いまは水も噴き上がってはいませんでした。
また金属製の犬が戸口の番をしている色あざやかな部屋々々からも、歌声一つひびいてはきませんでした。
それは死の都でした。
ただベスビオの山だけは、あいもかわらず永遠の讃歌をとどろかしていました。
その一つ一つの詩句を、人間は新しい爆発と呼んでいるのです。
わたしたちはビーナスの神殿に行きました。
それはきらきら光るまっ白な大理石でできていました。
広い階段の前に高い祭壇があって、円柱のあいだに生えているしだれヤナギはいきいきとしていました。
空気はすきとおって碧色をしていました。
背景にはベスビオの山が黒々とそびえていて、そこから噴きでる火は笠松の幹のように立ちのぼっていました。
煙の雲が夜の静けさの中に照らしだされて、笠松のこずえのように、血のように赤くひろがっていました。
この一団の中にひとりの歌姫がいました。
この歌姫はほんとうにすぐれた声楽家で、わたしはヨーロッパの大都会でこの人がほめそやされているのを見たことがあります。
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