初級翻訳・絵のない絵本 第4話

アンデルセン ハンス・クリスチャン

六人目の男は、御者のほうへからだを乗りだして、あそこに積み重ねてある石には、なにか特別のことでもあるのかとたずねました。
「いいや」と、御者は言いました。
「ただ、石が積み重ねてあるだけでさあ。だが、あっちの木のほうとなると、特別のことがありますて!」
「どうしてだい?」
「ええ、特別のことがありますとも! 旦那、冬になって雪が深くつもりますってえと、何もかも一面に平らになってしまいまさ。そんなとき、あっしの目印になるのが、あの木でしてね、あいつを頼りにして行くからこそ、海にもはまりこまねえですむってもんでさ。だからね、あいつは特別なんですよ!」
こう言って、御者は走り去りました。

そこへ、ひとりの画家がやってきました。その眼はきらめきました。画家は一言も発しませんでした。かわりに口笛を吹きました。ナイチンゲールが歌いはじめました。一羽また一羽と、だんだん高く。
「だまれ!」と、画家はどなって、すべての色と濃淡とを非常にくわしくメモしました。
「青、薄紫、濃褐色!」
これはすばらしい絵になるでしょう! 画家は、鏡がものの姿をうつすように、それをうつしとったのです。そしてそうしながら、ロッシーニの行進曲を口笛で吹いていました。

最後にやってきたのは貧しい女の子でした。女の子は塚のそばで休んで、荷物をおろしました。美しい青白い顔を森のほうへ向けて、そこからひびいてくる物音に耳をかたむけました。海のかなたの大空を見上げたとき、女の子の眼はきらきらと輝きました。両手がそっと合わされました。まるで『主の祈り』をとなえたかのようです。この子は自分でも、胸の中に流れている感情が何なのかわかりませんでした。しかし、わたしは知っています。長い年月がたつうちには、この瞬間とまわりの自然とが、画家が決まった絵具で描きだしたよりもずっと美しく、さらにいっそう忠実に、この子の思い出のうちにときおり生きかえってくるだろうということを。

わたしの光は、暁の光が女の子のひたいにキスをするまで、この子の後について行きました!

第八夜

重い雲が空一面にたれこめて、月はまったく姿を現わしませんでした。わたしは、なんともいえない孤独な気持ちで自分の部屋に立ち、月が昇ってくるはずの空を見つめていました。
わたしの心は、はるか遠くまで旅をしていました。
そして、毎晩あんなにも美しい物語を聞かせてくれ、すばらしい絵を見せてくれた、偉大な友だちである「月」のことを考えていたのです。
そう、これまで月が見てこなかったものなんて、いったい何があるでしょうか! ノアの箱舟の大洪水のときだって、月はその水の上を静かに通り過ぎていたのです。
そして、今まさにわたしにほほえみかけてくれているのと同じように、あの箱舟の上にもやさしく光を注ぎ、やがて花開く新しい世界の訪れを告げ、人々に希望をもたらしたのです。
イスラエルの人々が悲しみにくれ、バビロンの川辺に座り込んでいたとき、月は竪琴がかけられたヤナギの木のあいだから、その悲しげな姿をそっと見守っていました。
ロメオが恋人の家のベランダによじのぼり、天使の祈りのように清らかな愛の接吻を交わしたとき、まんまるい月は黒い糸杉の陰に半分隠れながら、澄み切った空に浮かんでいました。
また、セント・ヘレナ島に閉じ込められた英雄が、荒涼とした岩の上に立ち、胸に大きな野心を抱きながら大海原を眺めていたときも、月はその姿をずっと見ていたのです。
そう、月にとって話せないことなんて何があるでしょう! この世界の歴史そのものが、月にとっては一つの物語なのです。
なつかしい友よ、今夜はきみの姿が見えません。
きみが来てくれた記念に、どんな絵を描くこともできません。
――こうしてわたしが、夢見心地で雲のあいだを見上げていると、そこがパッと明るくなりました。
一すじの月の光です。
けれども、その光はすぐに消えてしまいました。
黒い雲がすべっていったからです。
それでも、あれは挨拶でした。
月がわたしに送ってくれた、やさしい晩の挨拶だったのです。

第九夜

空気は再び澄みわたりました。
それから数晩が過ぎました。
月は上弦の形になっていました。
わたしはふたたび、スケッチをしようという気持ちになりました。
――さあ、月が語ってくれた話を聞いてください。

「わたしはグリーンランドの東海岸まで、北極鳥と、泳いでいるクジラの後を追って旅をしました。
氷と雲におおわれた裸の岩山が、谷をぐるりと取り囲んでいました。
ヤナギとコケモモの花が咲きそろい、よい香りのするセンオウが甘い匂いをあたりに広げていました。
わたしの光は弱く、わたしのまんまるい顔も、茎からもぎ取られて何週間も水の上をただよっているスイレンの葉のように、青ざめていました。
空には北極光(オーロラ)の冠が燃えさかっていました。
その光の輪は広がり、光の筋は渦巻く火柱のように空全体にひろがって、緑や赤にきらめいていました。
この地に住む人々は、踊りや遊びのために集まっていましたが、この美しさを目にしても、ふだん見慣れているせいで、驚く者はだれひとりいませんでした。
彼らは『死んだ人の魂は、セイウチの頭と一緒に踊らせておけばいいんだ』という、自分たちなりの言い伝えを信じていたのです。
心も目も、歌と踊りに夢中でした。
輪になった真ん中で、手太鼓を持ったひとりのグリーンランド人が、毛皮も着ない姿で立ち、アザラシ狩りの歌の音頭をとっていました。
すると合唱隊が『エイア、エイア、ア!』とそれに応じます。
そうして、白い毛皮を着た人々が輪になって飛び跳ねる姿は、まるでシロクマたちの舞踏会のようでした。
みんなの目と頭は、激しく動き回っていました。
やがて、裁判と判決が始まりました。
仲たがいをしている人たちが前に出てきて、まず恥をかかされた者が相手の悪いところを即興の歌にして、大胆にあざけりながら言い立てるのです。
こうしたことはすべて、太鼓に合わせて踊りながら行われます。
訴えられたほうも、同じようにずる賢く言い返します。
すると集まった人たちが笑いさざめきながら、ふたりのあいだに判決をくだすのでした。
岩山はとどろき、氷の塊が崩れ落ちました。
落下する大きな氷の塊が、途中でこなごなに砕け散ります。
それはグリーンランドらしい、美しい夏の夜でした。
そこから百歩ほど離れたところに、入り口が開いたままの皮のテントがあり、その中にひとりの病人が横たわっていました。
その人の温かい血の中には、まだ命が流れていました。
けれど、もうこの男は死ななければなりませんでした。
本人もそう思っていましたし、周りの人たちもみんな分かっていました。
ですから、男の妻は、後になって死人の体に触れなくて済むように、夫の体のまわりに皮の衣をしっかりと縫いつけて、こうたずねたのです。
『あんたは、あの岩の上の固い雪の中に埋めてもらいたいの? それならわたしは、そこをあんたのカヤックとあんたの矢で飾ってあげるよ』「魔術師(アンゲコック)がその上を踊ってくれるだろうよ。それとも、海の中に沈めてもらいたい?」

「海の中へ」

 男はそうささやくと、悲しげな微笑を浮かべてうなずきました。

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