初級翻訳・絵のない絵本 第14話

アンデルセン ハンス・クリスチャン

まるで、わたしがこの男の顔を見てはならないように、そしてまた、この男がわたしの顔を見てはならないとでもいうかのようでした。男は馬車に乗りました。馬車の戸がしめられました。むちがヒューッと鳴りました。馬はこんもりとした森の中へ駆けこんで行きました。そこでは、わたしの光は後を追って行くことができません。けれども、わたしは牢獄の格子の中をのぞいてみました。わたしの光は、あの男の最後の別れである、壁にきざまれたメロディーの上をすべって行きました。言葉の力の及ばないところでは、音の調べがものを言うものです。

しかし、ただきれぎれの音譜しか、わたしの光は照らすことができませんでした。その大部分は、わたしにとってはいつまでも暗闇の中に残されることでしょう。あの男の書いたのは死の讃歌だったのでしょうか? 喜びの歓声だったのでしょうか? あの男は死のもとへ行ったのでしょうか、それとも、愛人に抱かれるために行ったのでしょうか? 月の光は人間が書くものをさえ、ことごとく読んでいるわけではありません。ひろびろとした大空をとおして、わたしは飛び行く雲を見おろしています。大きな影が地上を走って行くのが見えます!」

第三十三夜

「わたしは子供が大好きです」と、月が言いました。「小さい子は、ことにおもしろいものです。子供たちがわたしのことなんかちっとも考えていないときにも、わたしはカーテンや窓わくのあいだから、たびたび部屋の中をのぞいています。子供たちがひとりで、やっとこ着物をぬごうとしているのを見るのはとっても愉快です。最初に、裸の小さいまるい肩が着物の中から出てきて、そのつぎに腕がするっと抜けでてきます。それから、靴下を脱ぐところも見ます。
白くて固い、かわいらしい小さな脚が現われてきます。
ほんとうにキスをしてあげたいような足です。
そしてわたしは、ほんとうにその足にキスをしてやるのです!」と、月は言いました。
「今夜わたしは、どうしてもこのことを話さずにはいられません。
今夜わたしは、一つの窓をのぞきこみました。
向い側に家がないので、その窓にはカーテンがおろしてありませんでした。
そこには子供たちが、姉妹や兄弟たちがみんな集まっているのが見えました。
その中にひとりの小さい女の子がいました。
この子はやっと四つになったばかりでしたが、それでもほかの子供たちと同じように、『主の祈り』をとなえることができました。
そのため母親は、毎晩その子の寝床のそばにすわって、その子が『主の祈り』をとなえるのを聞いてやるのでした。
そのあとで、その子はキスをしてもらうのです。
そして母親はその子が眠りつくまで、そばにいてやります。
でも小さい眼は閉じたかとおもうと、すぐに眠ってしまいます。
今夜は、上のふたりの子がすこしあばれていました。
ひとりは長い白い寝巻を着て、片足でピョンピョン跳ねまわりました。
もうひとりは、ほかの子供たちの着物をみんな自分のからだに巻きつけて、椅子の上に立ちあがり、『ぼくは活人画(かつじんが)だぞ、みんなであててみろ』と言いました。
三番目と四番目の子は、おもちゃをきちんと引出しの中へ入れました。
もっともこれは、そうしなくてはいけないことですけども。
母親はいちばん小さい子の寝床のそばにすわって、『いまこの小さい子が主の祈りをとなえるから、みんな静かになさい』と言いました。
わたしはランプごしにのぞきこんでいました」と、月は言いました。
「四つになる女の子は寝床の中で、白いきれいなシーツの中に寝ていました。
そして小さい両手を合せて、たいそうまじめくさった顔をしていました。
いましも『主の祈り』を声高にとなえているところだったのです。
『あら、それは何なの?』母親はこう言って、お祈りの途中でさえぎりました。
『おまえはきょうもわれらに日々のパンを与えたまえと言ってから、ほかにも何か言ったのね。お母さんにはよく聞えなかったけど、それは何? お母さんに言ってごらんなさい!』――すると、女の子は黙ったまま、困りきった顔をして母親を見ていました。
『きょうもわれらに日々のパンを与えたまえと言ったあとで、おまえはなんて言ったの?』
『お母さん、怒らないでね』と、小さな女の子は言いました。
『あたし、お祈りしたのよ。パンにバターもたくさんつけてくださいまし、ってね!』」

(解説)
矢崎源九郎

アンデルセンといえば、おそらくその名を知らない者はないといってもよいでしょう。ことに童話詩人としての彼の名前は、私たちにとってはなつかしい響きを持っています。しかし彼は単に童話を書いただけではありません。小説、戯曲、詩、旅行記と、じつに多方面にわたって筆をふるっています。なかでも、イタリアの美しい自然を背景として、美少年アントーニオと歌姫アヌンチアータとの悲恋を描いた『即興詩人』などは、忘れがたい作品の一つといえるでしょう。

ハンス・クリスチャン・アンデルセン――私たちはいつのまにかアンデルセンと呼ぶようになりましたが、これは日本独特の呼び方です。外国の発音をカナで書き表わすのは不可能ですが、デンマーク流の発音は「アナスン」や「アネルセン」に近いです――は、一八〇五年四月二日に、豊かな伝説と古い民謡とに恵まれたデンマークのオーデンセという町に生れました。生れ故郷のオーデンセは、ブナの木の林のあいだに麦やウマゴヤシの畑がかぎりなく続いている、フューン島という美しい緑の島にありました。

父は貧しい靴職人でしたが、折にふれて幼いアンデルセンにおとぎ話や物語を読んで聞かせました。文学への興味は、このころの父の感化によって芽生えたといってもよいでしょう。母は働く一方の女性で学問はありませんでしたが、深い信仰心を持っていました。このふたりのもとで、幼いころはともかくも幸せな日々を送ることができました。しかし、十一歳のときに父を失うと、この幸福の夢もはかなく消え去ってしまいました。母は仕立屋の職人にしたいという希望を持っていましたが、アンデルセン本人は舞台に立つことを望み、十四歳のときただひとり首都のコペンハーゲンをめざして旅立ちました。このときから彼にとって新しい世界が開かれるとともに、茨の道がはじまったのです。すなわち都に出るには出たものの、何もかもが彼の希望に反してしまったのでした。俳優として舞台に立つ夢もかなわず、生まれ持った美しい声を活かして歌手になることもできず、彼は何度も絶望のどん底を味わいました。
しかし幸運なことに、そんな失意の時期に、一生の恩人となるコリンという人物に見いだされたのです。
それまで学校で十分な教育を受けてこなかった彼は、字を書けば綴りを間違えてばかりという状態でしたが、コリンの助けのおかげで学校に通うことができるようになりました。

アンデルセンは、一生のあいだ、旅から旅へとさすらい歩きました。
旅は、彼にとって切り離すことのできないものだったのです。
1831年に初めて国外へ旅立ち、続いて1833年にはドイツ、フランスを経てイタリアへと足をのばしました。

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