初級翻訳・良寛物語 手毬と鉢の子 第4話

新美 南吉

ここにある本は、みんなお前のものになるのだ」
お祖父さんは、小さな栄蔵の中に、学問を好む魂の芽生えを見つけたのです。お祖父さんにはそれが嬉しかったのです。――代々橘屋は学問を愛してきた。この子もまたそれを受け継いで愛していく。こうして橘屋の将来は、いつまでも輝かしく発展するのだ……。
お祖父さんが、本を盗み見していた自分を叱るものばかりだと思っていた栄蔵は、急にやさしいお祖父さんの言葉を聞いて、ぽろぽろと涙が出てきました。お寺の和尚さんに怒鳴りつけられたときも、蔵の中に閉じ込められたときも泣かなかった栄蔵は、今どういうわけで泣いているのか自分でも分かりませんでしたが、頬を伝う涙を止めることができませんでした。
「泣くことなどあるまい」
お祖父さんが本箱のふたを閉めてくれながら言うと、余計に涙がこみ上げてきました。お母さんもお祖母さんも、仕事など手につかず、おろおろして栄蔵が出てくるのを待っていました。お祖父さんはお母さんに「お秀、栄坊の鼻をかんでやりなさい」と言って、涙で汚れた顔の栄蔵を渡しました。
栄蔵は別の部屋へ連れて行かれ、お母さんに顔を拭いてもらいました。
「怖かったでしょう?」
お母さんは、ついでに長い耳まで拭いてやりながら尋ねました。
「ううん」
と栄蔵は首を振りました。そして、急にうれしいことを思い出したように、にっこり笑って言いました。
「お母さん、この唄知ってる?」
それから、角ちゃんに聞いた佐渡の唄を、少しも間違えずにすらすらと歌って、お母さんに聞かせてあげました。

佐渡は
四十五里
波の道。
雨風吹いても
宿がない。
雨風吹いても
宿がない……。

二 鹿の仔

遅い越後の春がやってきて、海が緑色にうるみ、岬の向こうの弥彦山の雪も消えました。
とある日の午後、栄蔵の家の襖が、下男たちによって取り外されました。栄蔵は、今ごろ煤払い(すすはらい)をするのかと思って下男の松さんに聞くと、お酒好きのひょうきんな松さんは「佐渡ヶ島へ引っ越しをするんだよ」などと冗談を言っていましたが、最後に「今夜はお日待ちですぞな」と本当のことを教えてくれました。
栄蔵は嬉しくなりました。襖を取り除いて、お寺の本堂のようにだだっ広くなったところで、でんぐり返りをして喜びました。そのうち、近所の人々が次々と集まってきました。遊び仲間の子供たちは、普段浜辺で怒鳴り合っているときとは打って変わって、ものすごく丁寧な物腰で、四角張った挨拶をしました。栄蔵はそれを見ていておかしくなりました。きっといつも裸ん坊でいる子供たちが、よそ行きの着物を着ているから窮屈なんだろう、と考えたのです。よそ行きの着物といっても、彼らのものは普段着とそれほど変わらない、厚ぼったい手織りの木綿でした。
大人たちは、家の中にいるのは落ち着かないので、仕事を見つけて表に出ました。庭の隅にかまどをしつらえ、大きい鍋をかけました。井戸端では、ぶこつな手で大根や人参を細かく刻みました。栄蔵は、いい着物に着替えさせてもらいました。陽だまりへ出ると、ぷうんと染料の匂いが鼻を打つ、懐かしい着物でした。それから、お使いに出かける松さんについて、お日待ち用の通帳を持たせてもらって、お酒屋さんへ行きました。酒屋では、酒樽がずらりと並んでいる、薄暗い酒蔵の中へ案内されました。一歩入ると、むっと酒の匂いが迫ってきました。松さんは嬉しそうに目を細め、小鼻をわざとぴくぴくと動かしながら、深く酒の匂いを吸い込みました。それを見ていた栄蔵は、なんだか面白くて笑ってしまいました。
縄のかかった四斗樽を買って帰ることになり、松さんは担ぐために縄を掴んだのですが、まるで芝居でもしているかのように、少しも力を入れず、力んでいるふりばかりして、なかなか担ごうとしません。

そして、「ねえ、栄坊さん。これじゃあ、とても担げやしない。一杯ひっかけなきゃ、力が出ないよ」と言いました。
酒屋の番頭さんが、笑いながら茶碗に一杯のお酒を持ってきてくれると、松さんは「やあ、すみません、すみません」と頭をかき、茶碗に吸い付くように口を当てて、うまそうに一息で飲み干しました。
そうすると、四斗樽は楽々と担げたのです。
松さんの歩調に合わせて、肩の上の四斗樽は「たぷん、ちゃぽん」と深い音を立てました。
「やあ、たぷん、ちゃぽん」と松さんは、おどけて口真似をしました。
そして「可愛らしい音だなあ」と言いました。
栄蔵はそのうしろから通帳を広げて、酒屋の番頭さんが耳にはさんでいた筆でさらさらと書いた文字を、一生懸命に読もうとしていました。
「さけ」という字だけは、なんとかそれだと読めたのですが、そのあとが読めないうちに家へついてしまいました。

すると、奇妙なものが庭の柿の木につないでありました。
はじめ栄蔵は、犬だと思って何気なく通りすぎようとしました。
しかし、それは犬ではありませんでした。
犬にしては、足が細くて長すぎたからです。そして耳が大きいわりに、顔は細くとがっていました。
栄蔵は近寄って見てみました。
それは犬のような険しい目つきではなく、丸い目全体が青みを含んだ黒色で、言いようのない優しさをたたえていました。
栄蔵が近づいても、こちらを見ようとはしません。何も見ないで、はるか遠くのことを思いふけっているかのように、じっとしていました。
杖のように細い足の先は、蹄が二つに割れていて、みずみずしいハコベの緑を踏んでいました。
栄蔵は、不思議な震えが全身をすうっと通り抜けていくような気がしました。
まだ赤ん坊だったころ、お母さんの温かい胸に抱かれて、うとうとしながら聞いた、あの甘く物悲しい子守歌にふと出会ったような気がしたのです。

我に返って、栄蔵は庭の隅でかまどに火を焚いていた小父さんに聞いてみると、小父さんはこう教えてくれました。
「それは鹿の仔(こ)だよ」
鹿の仔。鹿の仔。
なんて可憐で、愛くるしくて、悲しげなものがこの世にいることか。
栄蔵は、再び鹿の仔に近づいていきました。
「金ちゃん、おいでよ。わたしの家にね、鹿の仔がいるんだ、鹿の仔」
栄蔵はそう言って、近くの子供を呼びに行きました。
そして、その次の家でもまた同じように言いふらしました。
「勝ちゃん、見においでよ。わたしの家に鹿の仔がいるよ、ほんとの鹿の仔ッ!」
金ちゃんも勝ちゃんも、うすのろの豊ちゃんも、栄蔵に誘われてやってきました。
いつもおとなしい栄坊ちゃんが、あの「名主の家の昼行燈」が、こんなに意気込んでいるのは珍しいので、みんなは奇妙に思いました。
きっと何か素晴らしいものがあるのだろう、と思ったのです。
「ほうら、ね」
栄蔵は家の角を曲がったところで、もうそう言いました。
――なーんだ、ただの鹿の仔じゃないか。と、金ちゃんと勝ちゃんはつまらなく思いました。
そして、なぜ栄蔵がこれほど一生懸命になっているのか、さっぱりわけがわかりませんでした。やっぱり栄坊ちゃんは、豊ちゃんみたいなうすのろなんだ、と心の中で思いました。
しかし、ここまで来てしまったので、もう帰る気にはなりませんでした。かまどの上では大きな鍋がぐつぐつと歌っていて、うまそうな香りが庭いっぱいに漂っていたからです。

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