初級翻訳・良寛物語 手毬と鉢の子 第11話

新美 南吉

遠くの山々にはまだ雪が残っていましたが、道は草履で歩けるくらいに乾いていました。あたりには梅がほのかに香っています。
「尼ヶ瀬の惣ちゃんのお家へ行ってきます」
と言って、栄蔵は家を出ました。

少し歩いたところで、栄蔵は紙鳶が大好きな子のことを思い出しました。
すぐ近くに住む、縮(ちぢみ)の仲買商人の息子、新太郎ちゃんです。
新太郎ちゃんの家は貧しかったので、立派な紙鳶は持っていませんでした。でも、自分で竹を削り、栄蔵が分けてあげた清書紙のお古を貼って、なかなか上手に紙鳶を作ることができたのです。
近くの村などで紙鳶の試合があると、必ず見に行くような子でした。
栄蔵より四つほど年下で、いつも汚れた格好をしていましたが、負けん気が強く、紙鳶のことなら何でも知っているような口をきくのでした。
新太郎ちゃんのお母さんは、若い頃に栄蔵の家で女中や子守をしていた縁で、今でも新太郎ちゃんを連れてよく遊びに来ていました。
栄蔵はこの子が大好きでした。
「そうだ、新太郎ちゃんを連れて行ってやろう。きっと喜ぶぞ」
そう思いつくと、急に栄蔵は心が弾んで足取りも軽くなり、新太郎ちゃんの家へ向かいました。

新太郎ちゃんは家の横で、赤ん坊の妹を背負いながら、叩き独楽(こま)を回していました。
「新太郎ちゃん、尼ヶ瀬へ行かないか。長岡から買ってきた大きな紙鳶を見せてくれるそうだよ」
長岡から買ってきた紙鳶という言葉に、新太郎ちゃんの目にパッと光が宿りました。
長岡は越後でも大きな町で、そこでは立派な紙鳶が作られていたからです。
「その紙鳶、何枚張りだ?」
何枚張りかというのは、紙鳶の大きさを表す言葉のようです。そんなことは栄蔵には分かりません。
「俺は知らないけど……ねえ、行こうよ」
「うん!」
紙鳶と聞いては、新太郎ちゃんはじっとしていられません。
すぐ二人は出発しました。栄蔵は袴をはいていましたが、新太郎ちゃんはいつもの通りの垢だらけの着物で、お尻が破れてぼろぼろになった草履をはき、背中には頭中にできものができた赤ん坊を背負っていました。
歩いている途中も、新太郎ちゃんは紙鳶のことばかり話しました。話に夢中になると、背中の赤ん坊が泣き出してもほったらかしにして、口を尖らせて喋り続けるのでした。

尼ヶ瀬に入ると間もなく、道の片側に二階建ての大きな商家がありました。
入り口の障子には、太い文字で「呉服太物」と書いてあります。そこが訪ねてきた惣兵衛ちゃんの家でした。
「ここだ」
と栄蔵が言うと、今まで元気だった新太郎ちゃんの顔からスッと元気が消えていき、情けないような微笑を浮かべました。
新太郎ちゃんは、この家がどんな家かを知っていたのです。
新太郎ちゃんのお父さんは、子供の頃からここに奉公していました。縮の仲買商人になった今でも、塩沢や十日町や小千谷といった、越後の山の方の町や村から縮を買いつけてくると、この呉服問屋で買い取ってもらっていたのです。
つまり、新太郎ちゃんの一家にとって、惣兵衛ちゃんの家は「ご主人様」のような存在でした。
だから、栄蔵が入り口の障子を開けて中へ入ったときも、新太郎ちゃんは人に見られるのを嫌う野良犬みたいに、向かいの家の軒下をうろうろしていたのです。

「あのう、惣兵衛さんはおいでませんか」
と栄蔵が店の人に声をかけました。
やがて惣兵衛ちゃんが出てきて、
「そこの暖簾(のれん)をくぐって、奥へ来なよ」
と言いました。
栄蔵はまた入り口のところへ戻って、
「新ちゃん、新ちゃん」
と呼びました。新ちゃんは向かいの軒下から、さっきと同じ弱々しい微笑みで答えるだけです。何度呼んでも、なかなか来ようとはしません。
最後にお店の人が入り口までやってきて、新太郎ちゃんを見て言いました。
「なんだい、新坊じゃないか。お前も来たのか。それなら中へ入りなよ」
そう言われるまで、新太郎ちゃんは叱られた野良犬のような様子をしていました。
ようやく新太郎ちゃんはおずおずと入ってきました。なんだかバツが悪そうな顔をして、体が小さくなったように見えます。
栄蔵が可哀そうに思うほどでした。

二人は土間を通って暖簾をくぐり、奥の方へやってきました。
そこで栄蔵は、惣ちゃんのお母さんやお祖母さんに賑やかに迎えられ、「すぐ上にお上がりなさい」と言われました。
しかし、みんなは新太郎ちゃんのことを、まるで見落としているみたいでした。
上に上がった栄蔵は、惣兵衛ちゃんにそっと耳打ちしました。
「新ちゃんも上げてあげなよ」惣兵衛ちゃんがそう言ったとき、お母さんとお祖母さんは、土間の向こうの隅っこに縮こまっている新太郎ちゃんをじろじろと見つめ、しばらく何も言いませんでした。

「あれは、家にいた嘉助のせがれだね」とお母さんが言いました。
「え? 嘉助の? うん、あの嘉助のところのガキかい」と、眼鏡をかけたお祖母さんが、まだ新太郎ちゃんから目を離さずに言いました。

お祖母さんは、新太郎ちゃんの垢で汚れて白くなった足を見ていたのです。
栄蔵は、なんてひどいことを言う人たちだろうと思いました。
そんなわけで、とうとう新太郎ちゃんは座敷へ上げてもらうことはできませんでした。

でも、それはあまり困ったことではありませんでした。
なぜなら、惣兵衛ちゃんが栄蔵を縁側の方へ連れて行ってくれたからです。そして新太郎ちゃんも、土間から庭へ出て、縁側へ来ることができたからです。

その紙鳶(たこ)は、なるほど立派なものでした。
障子の三分の一くらいの大きさで、指で弾くと「パンパン」と音がするほどピンと張られた良い紙に、卵くらいの目を剥き出し、あごが船の形に突き出た役者の顔が、今にも匂い立ちそうな鮮やかな絵の具で描かれていました。

「ほうォ……」
新太郎ちゃんまで、つい自分の野良犬のような立場を忘れて、感嘆の声を漏らしたほどでした。
「これ、クジラのヒゲを使ってるんだよ」
惣兵衛ちゃんが得意げになって、裏側についている「唸(うなり)」を見せました。
紐も紙鳶にふさわしい太い糸で、それを巻きつけてある枠も、子供なら両手で抱えなければならないほど大きく立派なものでした。
栄蔵には紙鳶の知識はありませんでしたが、何から何まで立派な紙鳶だと思いました。

惣兵衛ちゃんは得意になって、値段まで口にしました。
それは、栄蔵がお正月やお祭りのときにお小遣いとしていただくお金の、十倍くらいの値段でした。
栄蔵も新太郎ちゃんも、ただただ感心して聞き入るばかりでした。

紙鳶が大好きな新太郎ちゃんは、できることなら手で触れてみたかったのです。骨の具合や、紙の張り加減などは、触ってみなければよく分からないからです。
しかし、それを言い出す前に、自分のみすぼらしい服装や、背中に負っている赤ん坊の頭のできもののことを思い出してしまいました。
そこで新太郎ちゃんは、黙っているより仕方がありませんでした。

ところが、間もなく新太郎ちゃんにとって都合の良い風向きになりました。
その紙鳶を実際に上げてみるため、畑の方へ出かけることになったのです。

「外へ行って紙鳶を上げてくるよっ!」と惣兵衛ちゃんがお母さんに言いました。
お母さんはびっくりして、「何を言うんだい。

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