あんな立派な紙鳶が子供に上げられるもんかい。あれは家の中に置いて眺めるための紙鳶だよ」と言いました。
しかし、惣兵衛ちゃんは聞きません。
「上げるよぉっ!」
お祖母さんが眼鏡越しに、栄蔵と土間の方へ回ってきた新太郎ちゃんをじろりと見て、「惣坊、お前はガキどもに唆(そそのか)されたんだろう」と言いました。
ひどいことを言うお婆さんだと栄蔵は思いました。
どうしても惣兵衛ちゃんが言うことを聞かないので、ついにお母さんは許してくれました。
「外へ行くと寒いから、もっと着物を着てお行き」
そう言って、惣兵衛ちゃんを奥へ連れて行きました。
やがて惣兵衛ちゃんは、綿入りの羽織やちゃんちゃんこを着せられ、ほっかむり頭巾をかぶせられて現れました。あまりに着込んだため両腕が脇にぴったりつかず、まるで奴凧(やっこだこ)のように外へ突っ張って歩いています。
よほど大事にされているんだなと、栄蔵は可笑しくなりました。
畑へ行くまでは、惣兵衛ちゃんの紙鳶だからと惣兵衛ちゃんが持って行きました。しかし、惣兵衛ちゃんは着物を着込んでいるだけでもう充分重そうでした。それに紙鳶は大きく、扱いづらいものです。
その上、畑まで来ると風があるので、よほどしっかり持っていないと、大事な紙鳶を飛ばされてしまいそうになります。
だから、目的の場所に着くころには、惣兵衛ちゃんはすっかり疲れてしまいました。
ほっかむり頭巾の下で、「はあはあ」と息を切らしているのが聞こえました。
いよいよ紙鳶を上げる段になると、持ち主の惣兵衛ちゃんは、まるでもう役に立ちませんでした。疲れている上に、紙鳶を上げる術を知らないのです。
栄蔵にも上げられませんでした。
「新太郎ちゃんがやるといいよ」と栄蔵は言いました。
新太郎ちゃんは、ついに願いを叶えられることになったのです。
しかし、赤ん坊が背中にいてはうまくできません。赤ん坊を下ろして、栄蔵に持っていて貰うことにしました。
栄蔵は、顔一面のできものの中から可愛らしい目でじっと見ている赤ん坊を預かるのは、あまり気が進みませんでした。
でも、嫌だと言うことは、栄蔵の性格上できませんでした。
栄蔵は背中を向けて赤ん坊を受け取りました。
赤ん坊は軽くて温かでした。
それは栄蔵の背中を完全に信頼しきっているかのように、おとなしくしています。
すると、もう栄蔵の心には、温かい愛情が湧いてくるのでした。
紙鳶を持った新太郎ちゃんの顔には、その瞬間、生気がさっと流れました。
まるで魚が再び水の中へ戻してもらえたような、そんな様子でした。新太郎ちゃんは、まず紙鳶(たこ)のしっぽの具合を確かめました。
それから唸(うなり)や、糸の結び目をちょんちょんと触ってみました。
専門家である新太郎ちゃんの手をもってしても、この紙鳶はなかなかうまく上がりませんでした。
なにしろ、これは子供の遊び道具ではありません。
大人が楽しむための紙鳶なのです。
新太郎ちゃんは、紙鳶の本体を惣兵衛ちゃんに持ってもらい、自分は糸巻きを持って、何度もやり直した末に、ついに紙鳶を空へ浮かばせました。
少し上がると、とても調子が良いのです。
春の風を受けて、ぐんぐんと昇っていきました。
空へ上がると、卵のような目を剥き出した役者の顔も、なかなか立派に見えるものです。
役者は少しずつ頭を振りながら、向こうに浮かんでいる雲をにらみつけています。
「大したもんだなあ」と思いながら、栄蔵と惣兵衛ちゃんは、ただ空を見上げて立ち尽くすばかりでした。
新太郎ちゃんは、どんどん糸を伸ばしました。
役者の立派な顔は、見る見るうちに小さくなって、空の彼方へ吸い込まれていきました。
こうして見上げると、空というものは随分と大きいものだなあと栄蔵は思いました。
惣兵衛ちゃんは惣兵衛ちゃんで、あれは自分の紙鳶なのだということにふと気がつきました。
そこで自分に返してもらおうと、新太郎ちゃんの方を振り返りました。
その途端、大変なことが起きてしまいました。
新太郎ちゃんは、調子に乗りすぎていたのです。
風というものは、地上より空の上の方が強いということを、彼は知っていたはずなのに。
それなのに、こんなにまで糸を伸ばすべきではなかったのでしょう。
突然、ぐいっと役者が引っ張りました。
まるで牛のような力で。
新太郎ちゃんは、つんのめって、畑の畝(うね)に足をとられて転んでしまいました。
そして、糸を手放してしまったのです。
あっという間の出来事だったので、栄蔵にしても惣兵衛ちゃんにしても、どうすることもできませんでした。
二人は、糸を巻き取る枠がすごい勢いで、からんからんと畑の上を跳ねながら、遠ざかっていくのをぼかんと見ていることしかできませんでした。
新太郎ちゃんは飛び起きると、枠のあとを追いかけました。
枠の方が十倍も速かったのですが、新太郎ちゃんは何処までも追っていきました。
やがて、紙鳶も新太郎ちゃんも小さくなり、ついには紙鳶だけが見えなくなってしまいました。
「知らねえぞ、知らねえぞ」
惣兵衛ちゃんは、新太郎ちゃんがまだ帰ってこないのに、そう言って責め立てていました。
新太郎ちゃんが戻ってくるまで、二人は長い間、一足も動かずに立っていました。
新太郎ちゃんが息を切らし、べそをかきながら戻ってくると、惣兵衛ちゃんはまた言いました。
「知らねえぞ、知らねえぞ」
新太郎ちゃんは、べそをかきながらただ立っているだけで、謝りもしませんでした。
これは「ごめん」で済むような、そんな小っぽけな出来事ではなかったのです。
「返せ、返せ」
と惣兵衛ちゃんが言いました。
それは無理な話だと栄蔵は思いましたが、何も言うことはできませんでした。
新太郎ちゃんは相変わらず黙って立っているだけでした。
「返せ。返さないと、てめえの父ちゃんに言いつけるぞ。てめえの父ちゃんは、家にいた嘉助だろう。嘉助に言いつけてやるぞ」
新太郎ちゃんの顔がゆがみ、涙がぽろぽろとこぼれました。
可哀想だなあと栄蔵は思いました。
役者に逃げられてしまった三人は、すごすごと畑の道を帰ることになりました。
途中まで来ると、新太郎ちゃんがさんざん泣いたあとの、きっぱりとした声で言いました。
「俺、返すから。お父ちゃんには言わないでくれよな」
あんなに高価な紙鳶をどうやって手に入れるつもりなのか分かりませんでしたが、その声の中には、きっと返してみせるという凛とした意志の輝きがありました。
お金というものは、大人が稼いで大人が使うものです。
だからお金は大人の手から大人の手に渡るものであって、子供には関係のないことなのです。
時々、子供はお使いを頼まれると、一つか二つのお金を持つことができます。
それが、子供とお金が関係する唯一の機会です。
乞食は働かないで、家々を回ってお金をもらって歩きます。
あんなことなら、子供にだってできそうです。
しかし、よく考えてみると、あれでさえ大人だけの世界であって、子供にはできません。
仮に、子供が一軒の家の門口に立って「何か恵んでください」と乞食らしく上手に言ったとしましょう。
しかし、その家の人はきっと何もくれないでしょう。
コメント