初級翻訳・良寛物語 手毬と鉢の子 第34話

新美 南吉

そこには顔色の黒い年老いた坊さんが、寒そうに体を丸め、膝の上に木の鉢の子を乗せてうずくまっていました。
「おっ、良寛さんだ」」と、今まで良寛さんの話をしてきた人が、船を降りながら言いました。
「ああ、今日は、叔問(しゅくもん)さん」
「今、船の中で、あなたのお噂をしていたところです。噂をすれば影とやらですね。全く。今からどちらへ?」
「天気がよいので、ぶらりぶらりと托鉢(たくはつ)に出て参りましたわい」
「船で渡るなら、早く乗るがいい」
と、船頭の武助さんは、そっけなく言いました。武助さんは、自分の思っていることを(良寛さんに対して)一言言ってやれなかったので、腹が立っていたのです。
「じゃあ、ごめん。いずれまた近いうちに」
と言って、良寛さんは船に乗りました。武助さんは、棹(さお)を操りながら、流し目で良寛さんを見ていました。良寛さんは、船のへさきに小さくうずくまって、川の上や下の方を眺めていました。
(何だい、こんな糞坊主がそばにいても、少しも温かい気持ちになんてなりやしないじゃないか)
と口の中で悪態をつきながら、武助さんは意地悪く船をぐらぐらと揺すぶりました。良寛さんは、船がひどく揺れ出したので、びっくりして船べりにつかまりました。
「この船はよく揺れるのう」
「うん、よく揺れるんだ。小さい船はよく揺れるんだ」
武助さんはふと悪いことを考えました。良寛さんを川の中へ揺り落として、怒らせてやろうというのです。
(きっと、かんかんになって怒るだろう。怒るようなものなら、ただの人間じゃないか)
船は川の真ん中あたりへ来ました。武助さんは良寛さんを油断させるために、船を揺らすのをやめました。良寛さんは船べりから手を離して、また水面を眺めました。
「ありゃ、蝶々が。蝶々が川を越えてゆくわい。お彼岸参りかな。いい日だでのう」
良寛さんは目を細くして、すれ違っていく一つの小さい白いものを見ていました。それからまた言いました。
「川も春になると、雪解けで水かさが増えてええのう。こう水が溢れて、ゆったり流れているのは、気持ちのええものだわい」
その瞬間、急にぐらりと船が揺れました。良寛さんは、どぶんと水の中に落ちて、「こう水が溢れているのは、気持ちのいいもの」ではないことが分かったのです。水が深くて足が底に届かないので、良寛さんは沈むまいとして手足をばたばたさせました。
(坊主というものは、泳ぎが下手なもんに違いない)
としばらく武助さんは眺めていました。しかし、良寛さんが溺れ死んでは大変だと、いい加減なところで棹を良寛さんの方へ差し出しました。良寛さんはそれにつかまって、船に上がりました。
(さあて、これからこの坊さんと俺との間で、喧嘩が始まるだろう)
と武助さんは身構えて立ちました。しかし、喧嘩は起きませんでした。
「済まなかったのう、よくわしを救ってくださった。お前さんが棹を差し出してくれなんだら、わしは溺れ死んでしまうところじゃった。済まなかったのう、済まなかったのう」
と良寛さんはお礼を言いました。そして、続けざまに三つクシャミをしました。
「何の、何の」
と武助さんは横柄に答えました。
「本当にお前さんは、わしの命の恩人じゃ。有難かった、有難かった。こんな老骨でも、まだ死ぬのは嫌なのじゃわい。浅はかなもんだわい。お前さんは見ていて可笑しかったろう」
「何の、何の。誰でも死ぬのは好かねえだ」
喧嘩になると思っていた武助さんは、拍子抜けして、口先だけで適当な返事をしていました。船が岸に着くと、良寛さんは改めて武助さんにお礼を言って、寒さにガタガタ震えながら土手を登っていきました。だんだん小さくなっていく後ろ姿を見送りながら、武助さんは我を忘れて船の中に突っ立っていましたが、やがて、
「へっ、何でえ、あの坊主は……」
と呟きました。何が何だか、武助さんにはさっぱり分からなかったのです。

村はずれの、田んぼの中にある武助さんの小さい家に、あかりがふっとつく頃に、武助さんは帰ってきました。
「あッ、びっくりした。何でまた、そんな牛みたいに、のっそり入ってくるだね」
と、勝手場で夕飯の支度をしていた奥さんが言いました。武助さんは黙って部屋に上がると、大黒柱の方に頭を向けて、ごろんと寝転びました。前の田んぼで、蛙が遠慮がちに鳴いています。「ぐるぐる、ぐるぐる」と鳴いては、長い間黙っています。武助さんは、ぼんやりそれを聞いていました。
「さあ、支度ができましたで」
奥さんが台所から呼びました。武助さんは立って行って、膳の前に座ると、黙って箸を取りました。
「お前さんの大好物の、田螺(たにし)の味噌和えだけど」
とお内儀(かみ)さんは、武助さんが黙って食べているばかりなので、つまらなくなって言いました。
「うん」
と武助さんは、重く返事をしました。そして二杯ご飯を頂くと、もういらないと言うのです。
「どうかしただね。加減でも悪いのか?」
とお内儀さんは、いつもなら七杯くらいぺろりと食べる武助さんの顔を、つくづく見ながら聞きました。
「うん……」」と武助さんは、また重苦しく答えました。
「腹でも痛むのかい?」
「腹じゃねえ」
「それじゃあ、頭が痛むのか?」
「そうでもねえようだ」
「それなら、胸が締め付けられるような感じがするのかい?」
「そうでもねえ」
「じゃあ、一体どこが悪いんだ?」
「どこだか、よくわからねえ」

しかし、確かにどこか具合が悪かったのです。一体どこが悪かったのでしょうか。武助さんの心の中の何が痛んでいたのでしょうか。それは、武助さんの「良心」でした。武助さんの胸の奥深くに隠れていた、良心だったのです。
「あんなおとなしい坊さんを、俺は水へ突き落としてしまった。なんてひどいことをしてしまったんだ」
と、良心が胸の奥で語りかけていたのです。

夕飯が済むと、武助さんは「もう寝る」と言って布団に入りました。
(眠ってしまえ。明日の朝になれば忘れるだろう。気持ちもさっぱりするはずだ)
そう武助さんは思いましたが、どうしても眠れませんでした。しっかりと目を閉じていても、少しも眠気がやってこないのです。何度も寝返りを打っては、深い溜息をつきました。そうして夜はだんだんと更けていきました。

突然、武助さんはむっくりと起き上がると、外に出てわらじを履きました。
「こんな時間にどこへ行くんだい?」
とお内儀さんは、縫い物を膝の上に置いたまま尋ねました。
「国上山(くがみやま)だよ」
「えっ、国上山? どうしてまた急に、そんな遠くまで出かけるのさ」
武助さんは、今日の昼間に良寛さんを船から揺り落としたことを、簡潔に話しました。そして、良寛さんが怒るどころか、かえって自分にお礼を言ったことも話しました。
「俺は馬鹿だった。とんでもないことをしてしまった。だから今から、あの坊さんのところへ行って謝ってくるんだ」
お内儀さんも、武助さんのしたことは間違っていたと認めました。
「あなたさんは、いつも他人の言うことに反対ばかりして。本当に悪い癖ですよ」
しかし、謝りに行くにしても、こんな夜更けに出かけず、明日でもいいのではないかと止めました。
「いや、今から行ってくるんだ。

コメント

タイトルとURLをコピーしました