「みんな、ちゃんと乗り換えの場所を知っているのかい?」
「電車の路線図をトイレの壁に貼ってあるんだ」
「なるほどね! それなら、たとえ途中で迷子になっても一人でちゃんと家に帰ってこられるわけだ」
「実はね、今日は喜三郎をわざと迷子にさせる作戦なんだよ。
もっとも、僕がこっそり見え隠れしながら後ろをついていってるけどね。
帰りは、勝子がみんなを引率してちゃんと帰ってくる予定さ」
「すごいことをやるんだなぁ! 本当に大丈夫なのかい?」
僕はすっかり呆れてしまった。
「大丈夫に決まっているさ。
本人も薄々それに気づいていて、一生懸命に地理を勉強しているんだから。
僕だって尋常一年生の時、お父さんに須田町(すだちょう)の真ん中で置いてけぼりを食らわされたことがあるぜ。
うちの子供たちは、東京中どこへ放り出されたって、平気で自分の足で帰ってくるさ」
文一君はすまし顔でそう言った。
お隣りでこんなふうにものすごく緊張感のある家庭教育をされているんだから、うちのお母さんが我が家のお父さんの「放任主義」に対して不満を言うのも無理はないよ。
お母さんは、将来の高等学校の入学試験には、きっと文一君が合格して僕が落第してしまうに違いないと固く信じているんだ。
実際、文一君が僕の家に遊びに来るとホッとリラックスするのに対して、僕が文一君の家に足を踏み入れると、なんだかピリピリとした特別な「プレッシャー」を感じる。
自分はまだまだ努力が足りないんだなと思い知らされるんだ。
だから、文一君の勉強部屋を訪ねるのは、自分にとってすごく良い刺激になる。
さて、一昨日の夜も、その文一君の勉強部屋で二人並んで数学の難問に冷や汗を流していると、お客さんとして来ていたお姉さんの旦那さん(お婿さん)が、すっと部屋に入ってきた。
僕はあわてて姿勢を正して、きっちりとお辞儀をした。
お辞儀の仕方まで、この片山家の敷居をまたぐと緊張して、すっかりよそ行きのかしこまったものになってしまうのだ。
「巣鴨の兄さんです」
と文一君に紹介されるまでもなく、僕だってもう文科大学の助教授(大学の先生)だと知っていた。
「調子はどうだい?」
と、助教授の先生は優しく声をかけてくれた。
「全然ダメですよ」
と、文一君が僕の分までまとめて答えてくれた。
そのまましばらく話が途切れて、ちょっぴり手持ち無沙汰な時間が流れた後、
助教授が静けさを破って言った。
「毎日忙しいだろうね。本当によく同情するよ。
でも、誰だって人生で一度は絶対に通り抜けなきゃいけない関門だからさ、気合を入れて精一杯突破するんだな」
「本番ではいったい何点くらい取れば合格できるんでしょうか?」
と、文一君が真剣な顔で尋ねた。
「さあねえ。
少しでも点数が取れれば入れるものさ。
受験生が千人いたって、そのうちの三分の二はもともと合格を争うレベルにいない連中だからね。
実際の本当のライバルは、三人に一人くらいのものさ」
「なんだか心細いなあ……。
もしかしたら、その『問題にならない三分の二の中』に、僕自身がもう入り込んでいるかもしれません」
「なに、案外なんとかなるものだよ。
まあまあ、できる限りのことを精一杯やるんだね」
と言ってはみたものの、助教授の先生にも特別な合格の裏技なんてあるわけがなかった。
「夜、どうしても眠くなってしまうのを防ぐ方法ってないでしょうか?」
文一君は、今すぐ使える合格の「秘訣」がどうしても欲しかったのだ。「眠くなったら寝ればいいんだよ」
「でも、寝てしまったら勉強ができません」
「いったい一日にどれくらい勉強しているんだい?」
「学校の授業が五時間、家での復習や予習が二時間、家庭教師の先生のところが一時間、夜は七時から十一時までです」
「それじゃあ大変だな。十時間以上になるじゃないか」
「電車の中でも参考書を見ていますから、十三時間くらいになります。それでも宿まるで終わらないんです」
と、僕が訴えた。
「人間業とは思えないほどの努力だなあ」
と、助教授の先生は驚いたようだった。
そこへ、文一君のお父さんが部屋に入ってきた。
僕はぜんまいじかけのようにはっきりと頭を下げてお辞儀をした。
「おや、源太郎くんが来ていたのかね。勉強のほうはどうだい?」
「だめです」
と、僕は再び頭を下げた。
「文一も、だめだだめだと言うものですから、少し負担かもしれませんが、この間から土曜講習へも通わせているんですよ。君はどうかね?」
「僕は通っていません」
「猛(たけし)さん、二人そろっているところで、一つ大いに勉強するように励ましてやってください。猛さんくらいの説得力なら、きっと効果がありますから」
と、文一君のお父さんはちょうどいい機会だと言わんばかりにお婿さんに頼み込んだ。
子供の顔を見るなり勉強の話を持ち出す人だった。
「先ほどからいろいろと話を聞かせてもらいましたが、この子たちはもう十分すぎるほど頑張っていますよ」
と、助教授は薄笑いを浮かべながら言った。
「こんなやり方で大丈夫なんでしょうか?」
「大丈夫さ。まあ、あと半年足らずのことだから、体を壊さない程度に精一杯やればいいのさ。いざ学校に入ってから『カマボコ主義』に切り替えても、まだ遅くはないさね」
「カマボコ主義ってなんですか?」
と、生真面目な片山さんは、それが外国の難しい言葉だと思ったらしい。
近ごろは色々な新しい主義が流行っているからだ。
「ずっと机の板に張り付いて勉強し続けることさ」
と、助教授は机をトントンと叩いて説明した。
やっぱり、あの食べ物の「蒲鉾」のことだった。
「ははあ、冗談ですか。ですが、勉強しすぎるということはいけないことなんですか?」
「程度の問題さ。こんなふうに無理ばかりしていたら、いざ大学で本当の専門的な勉強をする時期が来たときに、頭が働かなくなってしまうよ。失礼ですが、お父さんは少しやりすぎじゃありませんかね?」
「しかし、油断して試験で落とされてしまったら取り返しがつきませんからね」
長い人生から見れば何でもないことです」
「いや、何でもなくない! 俺はもう歳なんだ。子供にはかわいそうだと思うけれど、どうしても焦ってしまうんだよ」
「実は、お父さんが文一君を猛勉強で追い詰めすぎてしまいはしないかと心配になって、それとなく様子を見にきたんです。那美子(なみこ)もひどく心配していますよ」
「その点は心配いりませんよ。毎日卵を十個も食べさせていますからね」
と、文一君のお父さんはあっさりと打ち明けた。
これを聞いてよく分かったのは、文一君は僕を出し抜いて土曜講習に通っているだけでなく、一日に卵を十個も平然と食べながら猛勉強を続けているということだった。
受験の競争ともなると、どんなに仲のいい友達(刎頸の友)であっても油断はできないものだ。
現実の世の中とはこういうものなのだ。
*
「源太郎や、髪が伸びていて見っとうないよ。散髪に行ってきなさい」
とお母さんに注意されてから、もう何日も経っていた。
月に一度、あるいは三月に二度しか行かない散髪のときは、いつもこうなってしまう。
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