初級翻訳・親鳥子鳥 第31話

佐々木 邦

こちらへ来るには及びません』と慌てて返電が来ましたよ。
あの野郎、ちゃっかりほかの腕のいい医者を探して入院したんですな。
親父のヘボい腕前を、息子はよく知っていたわけですよ」
と佐久間先生はケラケラと笑っていた。
「医者の不養生」という有名なことわざがあるが、佐久間先生はそれをまったく否定しない。
「健康のための生活ですか? それとも生活のための養生ですか?」
などと、独自の屁理屈をつけたりする。
このあたりの考え方が妙にしっくりくるのか、お父さんと先生はいつも話がよく合うのだ。
先生は大変なヘビースモーカーで、昔は「一銭蒸気」というあだ名をつけられていたほどだ。
これは、いつも口からプカプカと盛大に煙を吐き出しているという意味なのだそうだ。
四六時中、太い葉巻をくわえている。
お酒のほうもなかなかのものだ。
夕方に家から電話をかけてみると、
「先生はただいま手が離せない大事な治療をなさっておりますので、後ほどこちらからかけ直させます」
と書生さんが応対する。
まさか「今ちょうど晩酌の真っ最中です」とは言えないのだろう。
しかし、約束の時間は必ず守る。
しばらくして、少し酔っていい気持ちになりながら、葉巻をくわえて駆けつけてくるのだ。
僕が佐久間先生を「本当に面白いお医者さんだな」と最初に思ったのは、小学校の尋常科六年生のときだった。
天然痘が流行って学校でみんな一斉に種痘(予防接種)を受けたのだが、僕はそのとき病気で休んでいたので、日曜日の朝に遅れて一人でお伺いしたのだ。
先生が僕の腕をアルコール消毒してくれているまさにその時、
「先生、今日もまたいたずら小僧どもが裏の梅林へ梅を盗みに来ています!」
と薬局の書生さんが慌てて飛び込んできた。
「何人来ているんだ?」
「十人ほどいます。
表から回って取り押さえましょうか?」
「いや、放っておきなさい。
放っておくんだ」
「でも、全部取られてしまいますよ!」
「取っていくなら、むしろ結構じゃないか」
「どうしてですか?」
「あの梅はまだ種が固まっていないんだ。
あんな青い梅を食った奴らは、六十パーセントくらいの確率で食中毒を起こす。
みんな近所の子どもたちだろう? 十人いるってことは、つまり将来の患者が十人……いや、六人やって来る道理だ。
梅を少しくらい取られたって、医者にとってはちっとも損にはならないさ」
と笑いながら、先生はすんなりと僕の種痘の注射を済ませたのだった。これだから佐久間医院は子どもの患者が多いのだろうなと、僕は思った。
「奥さん、どうでしょう? 私は診察料をもらいすぎていますかね?」
と、佐久間さんは以前こんなふうに尋ねたことがあった。
天真爛漫な性格だから、疑問に思ったことをすぐに口に出してしまうのだ。
しかし、こういう質問は実に答えに困るものである。
まさか「その通りです」なんて言えないし、「安いです」と褒めようものなら、今度は本当に値段を上げてしまいそうだからだ。
そこで、お母さんは上手に話をそらした。
「まあ、お冗談を……」
「実は私、この間、靴屋さんに一本やられましてね」
「靴屋さんでございますか?」
「そう、うちのすぐそばにある靴屋です。あいつはなかなかの理屈屋でね。靴がだいぶ傷んできたから、一足新しく買うつもりで、通りがかりに店に寄ったんです。だけどあんな小さな店でしょう? いくら探しても気に入ったものがない。『この靴は、直せばまだ履けるかな?』と、今履いている靴を見てもらったんです。すると『これはもう何度も直していらっしゃるから、これ以上は手がつけられませんよ。このまま破れるまでお履きになったほうがためし(あなたのため)でしょう』と店主が言うんです。『そうかな、それじゃあ仕方がない』と言って私が帰ろうとすると、『先生、五十銭いただきます』と言う。『五十銭?』『診察料です』『いやあ、これには驚いた』というわけですよ」
「まあまあ!」
「あいつ、本気で言ってるんです。『この間、私がリマウチ(リウマチ)で診てもらったとき、先生は「これはもう手当の仕様がないから、このまま死ぬまで辛抱するんだね」っておっしゃって、診察料をしっかり一円お取りになったでしょう?』ってね。まったく理の当然で、一言も言い返せませんでした。『それじゃあ、五十銭払おう』と言ったら、『診察料はおまけします。その代わり、うちで新しい靴をオーダーしなさい』という談判ですよ。考えてみたら、あそこへはいつも靴の修理ばかり頼んでいて、一度も注文したことがなかった。親父のほうも、それが日頃からちょっと癪(しゃく)に障っていたんでしょうな。結局、すごすごと靴を一足注文して逃げ出してきたというわけです。いや、またよけいな無駄話を始めてしまいましたね。それでは、お大事に」
と、自分の長話にようやく気がついて、佐久間さんは帰っていったのである。

この先生は、お正月早々から二週間の間、毎日通ってきた。
お母さん一人だけだとそうでもないのだが、お父さんが居合わせると、色々な脱線話で大いに盛り上がるのだ。
絹子さんがあまりの苦しさに「夜分もう一度来てください」と頼んだときも、佐久間さんは例によって「手が離せない」とのことだったが、しばらくして顔を真っ赤にして駆けつけてきた。
こういう時こそ、先生は一段と元気がいいのだ。
「耳下腺(じかせん)のあたりがすごく痛むようです」
とお父さんは、何度も足を運んでもらう申し訳なさから、そう説明した。
「ははあ、また腫れましたな。これでは多少痛みましょうとも。扁桃腺炎だけでなく、いわゆるおたふく風邪です。妙齢のレディ(ご婦人)としては、ちょっとお気の毒なお顔になってしまいましたね」
と、佐久間さんは全く動じない。
「そんなに頬が腫れているでしょうか?」
と絹子さんが盛んに気にするのに対し、「いやあ、そんなんでもありませんよ」と控えめにフォローするお母さんをよそに、お医者さんはありのままの事実をズバッと言ってしまうのだ。
それにしても、わざわざ上京して本格的な美顔術を受けるつもりが、まさかおたふく風邪にかかってしまうとは、何とも皮肉なめぐり合わせだった。
「どれ、拝見しましょう」
と、佐久間さんはさっそく診察に取りかかった。
「痛むのは痛むのですが、この腫れはちゃんと直るのでしょうか?」
と、絹子さんは泣き声まじりで尋ねた。
「直りますとも! こんなお顔のまま固まったりしたら大問題です。炎症が静まれば、腫れはすぐに引きますよ」
「化膿(かのう)してしまうようなことはありませんでしょうか?」
「大丈夫です。最近はこういうのが流行っていますが、みんな二、三日か四、五日でケロッと直りますよ」
「でも、万が一化膿した場合は、やっぱり切開することになるのでしょうか?」
「それはもちろんそうですけど、そのときは外科の専門家に頼みますよ。なにせお顔ですから、あまり大きく切るわけにはいきませんからね。まあ、そんな心配はまず万が一にもありませんよ」
と、佐久間さんは力強く保証した。
絹子さんもこれでようやく納得がいったようだった。なにしろ、痛いというよりも、顔が腫れてしまったことがショックで夕方から泣いていたのだから。

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