初級翻訳・論語物語 第17話

下村 湖人

「世の中を救い、人民を助けたいという志を抱き、国の政治のために尽くしたいと希望しながら、いくら良い機会があっても自分から進んで仕えようとしないのは、果たして本当の知者と言えるでしょうか?」
孔子は、これには多少言いたい意見があった。
しかし、それをいちいち述べてみたところで、どうせ話を長引かせるだけの効果しかないと思ったので、こう答えた。
「いかにも、それは知者とは言えません」
すると陽貨は、ここぞとばかりに、三の矢を放った。
「時は刻々と流れていきます、歳月は人を待ってくれません」それだのに、貴方のような高徳有能の士が、いつまでもそうして空しく時を過ごされるのは、心得がたい事です。」
陽貨は、そう云って、非常に緊張した顔をして、孔子の答をまった。
しかし、孔子の答えは、極めて無造作であった。
彼は相手の言葉に軽くうなずきながら、
「なるほど、よくわかりました。私もなるべく早く、よい君主をみつけて仕えたいと存じています。」
彼は、そう答えると、すぐ立上った。
そして丁寧に陽貨に敬礼をして静かに室を出た。
彼のために多分用意されていたであろう午飯を、彼の帰ったあと、陽貨がどんな顔をして、どう仕末したかは、孔子自身の関するところではなかったのである。

孝を問う

孟懿子、孝を問う、子曰く、違うことなかれと。
樊遅御たり。
子之に告げて曰く、孟孫、孝を我に問う。
我対えて曰く、違うこと無かれと。
樊遅曰く、何の謂ぞやと。
子曰く、生には之に事うるに礼を以てし、死には之を葬るに礼を以てし、之を祭るに礼を以てすと。
――為政篇――

季孫、叔孫、孟孫の三氏は、ともに桓公の血すじをうけた魯の御三家で、世にこれを三桓と称した。
三桓は、代々大夫の職を襲ぎ、孔子の時代には、相むすんで政治をわたくしし、私財を積み、君主を無視し、あるいはこれを追放するほど、専横のかぎりをつくして、国民怨嗟の的になっていた。
孔子は、一ころ定公の信任をうけて、中都の宰となり、司空となり、ついに大司冦となって、宰相の職務をも摂行するようになったが、この間、彼はたえず三桓の労力を殺ぐことに努めた。
そして、どうにか叔・孟の二氏を閉息せしめることに成功したが、おしまいに、季氏を押さえる段になって、計画が水泡に帰し、一方、定公は斉の国の誘惑に乗って、季氏とともに美女にたわむれ、宴楽にふけり、いつとはなしに彼を疎んずるようになったので、彼も、ついに望みを魯の政治に絶ち、職をしりぞいて漂浪の旅に出ることになったのである。
だが、話は孔子がまだ官途について間もないころのことである。
一日、孟懿子――孟家の当主――は、孔子を訪ねて、殊勝らしく孝の道をたずねた。
孟懿子の父は孟釐子といって、すぐれた人物であり、その臨終には、懿子を枕辺に呼んで、そのころまだ一青年に過ぎなかった孔子の人物を讃え、自分の死後には、かならず孔子に師事するように言いのこした。
懿子は、父の遺言にしたがって、それ以来、弟の南宮敬淑とともに、孔子に礼を学んで来たのであるが、彼の学問の態度には、少しも真面目さがなかった。
彼が孝の道を孔子にたずねたのも、父に対する思慕の念からというよりは、その祭祀を荘厳にして、自分の権勢を誇示したい底意からだった、と想像されている。
孟孫氏の家廟の祭が近まっていること、そしてその計画の内容がどんなものであるかを、うすうす耳にしていた孔子は、懿子の質問の底意を、すぐ見ぬいてしまった。
で、彼はごく簡単に、
「違わないようになさるが宜しかろう。」
と答えた。
懿子は、その意味がわかってか、わからないでか、或は、わかっても知らん顔の方が都合がいいと考えてか、重ねて問いただしても見ないで、帰って行ってしまった。
孔子は、いくらかそれが気がかりにならないでもなかったのである。
(もし、孟孫氏に、はなはだしい僭上沙汰でもあれば、それは孟孫氏一家の問題だけでなく、魯の国の問題であり、ひいては天下の道義を紊ることにもなる。
それに、万一、自分に一応の相談をした、とでも云いふらされると、これから自分がやって行こうとする政治の精神を、傷けることにもなる。
出来れば、自分のいった意味を、はっきりさして置くに越したことはない。
しかし、祭典の計画について、直接の相談もうけないで、こちらからそれを云い出すのも非礼だ。
何とか方法はないものだろうか。)
孔子はそんなことを考えて、いい機会の来るのをねらっていた。
ところが、ある日、樊遅が孔子の供をして、馬車を御することになった。
樊遅は孔子の若い門人の一人である。
武芸に秀でているために、孟孫子に愛されて、しばしばその門に出入する。
孔子は、彼ならば、自分の意志をはっきり孟懿子に伝えてくれるだろう、と考えた。
「先達て珍しく孟孫がたずねて来て、孝道のことを訊いていたよ。」
孔子は御者台にいる樊遅に話しかけた。
「はあ――」
「で、わしは、違わないようになさるがよい、と答えて置いた。」
「はあ――」
樊遅は何のことだかわからなかった。
「違わない」というのは、親の命令に背かないという意味にもとれるが、孟懿子には、もう親はない。
そう考えて、彼は手綱をさばきながら、しきりと首をひねった。
「どう思う、お前は?」
孔子は答をうながした。
しかし樊遅はもう一度「はあ。」と答えるより仕方がなかった。彼はそう答えてから、これまでに弟子たちが「孝行の道」について質問したとき、自分がどんな教えを与えたかを、自分の記憶の引き出しから探してみました。

最初に思い出されたのは、孟懿子の息子である孟武伯(もうぶはく)の質問に対する答えでした。
「1. 親は、子どもが病気をすることをもっとも心配するものだ。」
たったこれだけでした。
いつも体調を崩してばかりいる孟武伯に対する答えとしては、それはあまりにも当たり前のことでした。

次は、子游(しゆう)に対する答えです。
「2. いまの世の中では、親に食べ物を与えて養うことさえしていれば、それが親孝行だと言っているようだが、人間は犬や馬だって養っているではないか。親孝行には、親を敬う心が一番大切だ。もしその心がなかったら、犬や馬を飼っているのと何の違いがあるだろうか。」
これも、特別にむずかしい話ではありません。
子游には少し礼儀に欠けたところがあるのを思い合わせると、孔子の気持ちもよく理解できます。

もう一つは、子夏(しかつ)の問いに対する答えでした。それは、
「3. 本当にむずかしいのは、いつも優しい顔つき(温顔)で親に仕えることだ。実際に親の代わりに仕事で苦労をしたり、ご馳走があったときにそれを親にすすめたりするだけでは、本当の親孝行とは言えない。」
というものでした。
これも子游に対する答えと大同小異で、少し怒りっぽいところがある子夏の性格を考えると、きわめて当然の答えでした。

そこまで考えてきて、樊遅(はんち)はもう一度「違わないように」という言葉の意味を考えてみました。
しかし、やっぱりどうしてもわかりません。
そこで彼は、親孝行に関するありとあらゆる孔子の教えを、もう一度はじめから終わりまで心の中でくりかえしてみました。

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