初級翻訳・論語物語 第26話

下村 湖人

詩を学ぶならば、人間の心を奮い立たせ(興す)、世の中の善悪を観察し(観る)、多くの人々と仲良く協力し合うことができ(群す)、自分のなかの不正に対する正当な怒りや不満を上品に表現する(怨む)ことができるようになる。
身近にはしっかりと父に仕え、遠くには君主によく仕える道を学ぶことができ、さらに多くの鳥や獣、草木の名前もしっかりと覚えることができるのだ」と。(陽貨篇)

8 先生が言われた。「もし相手を敬い自分を譲る心(礼譲)をもって国を治めることができるならば、政治のうえで一体どんな不都合があろうか、何もないはずだ。しかし、もし礼譲をもって国を治めることができないならば、形だけの『礼』などがあったところで、一体どうなるというのだろうか(何の意味もない)」と。(里仁篇)

9 先生が言われた。「物事に直面したときに、『どうしたらよいか、どうしたらよいか』と我が身を焦がして真剣に悩もうとしない者に対しては、私ももうどうにもしてやりようがないのだ」と。(衛靈公篇)

10 子路は、何か新しい教えを聞いても、まだそれを自分の行動に移すことができていないうちは、次から次へ新しく他の教えを聞くことになってしまうのを、何よりも恐れた。(子路の真面目な学習態度を称える表現)(公冶長篇)
11 子貢は言った。「夫子の文章(すぐれた教えや学問)なら、いつでも聞いて学ぶことができる。しかし、夫子が人間の根本である『性(しょう)』や『天道(てんどう)』について語られるのを聞くことは、めったにできないのだ」と。
(公冶長篇)

天の木鐸

 衞(えい)の国の境界にある関所の役人(封人=ほうじん)が、孔子に面会したいと申し出た。
 彼は言った。
「君子という人たちがこの国を通り過ぎる時、私は未だかつて、直接お目にかからずに見過ごしたためしはないのだ」と。
 そこで従者たちが彼を孔子に会わせた。
 面会を終えて外に出てきた役人は、そこにいた弟子たちに向かって言った。
「お前たち若者たちは、どうして先生が不遇であることや、位につけないことを嘆いたり心配したりするのかね。
 天下に正しい道が失われてから、もうずいぶんと長い時間が経っている。
 しかし、天はまさに、我が夫子(孔子)を『木の鈴(木鐸=もくたく:木の舌を持つ鈴で、法令や教えを人々に伝えるために鳴らされたもの)』としてお使いになり、天下を目覚めさせようとなさっているのだからね。」
――八※篇(八佾篇)――

「実はその、これが私のただ一つの道楽でございましてな、……いや、道楽などと申しては、まことに失礼でございますが、正直のところ、そのような楽しみがあればこそ、こうして関所勤めなどさせていただいて居りますような次第で、はい。」
 衞の関所の守り番は、もう七十に近い老人である。
彼は、是が非でも、じかに孔子に面会させてもらうつもりで、その宿所にいた門人の冉有(ぜんゆう)を訪ねて、曲った腰を叩きながら、しきりにまくし立てていた。
それは、孔子が魯の大司寇(だいしこう:国の裁判や警察を司る最高職)を辞め、定公の十三年、五十五歳の時に、はじめて諸国遍歴の旅に出たばかりの頃のことであった。
――儀は魯の国境に接した衞の一つの小さな都市である。
「それで、もうどのくらいお勤めなのですか。」
 冉有は、この関守を孔子に会わせたくなかった。
孔子の話し相手となるのは、諸侯(国の君主)か、さもなくば大夫(大臣クラスの貴族)である。
一々こんな小役人などに面会させていては、きりががない。
それに、何といっても、孔子は今は国を追われた落魄(らくはく)の身である。
衞の国に入ったしょっぱなから、よぼよぼの関所役人などを相手にしたとあっては、いよいよ孔子の威厳にかかわる。
われわれ門人としても、あまりいい気持ちのするものではない。
この際は、世間に軽く見られるのが、何よりもいけないことだ。
なるだけどっしりと構えるに限る。
そう考えて、彼は話を別の方向へとそらそうと努めた。
「もう、かれこれ、四十年ほどにもなりましょうかな。」
 と、関守は、ぐっと腰をのばして、いかにも得意そうに答えた。
「四十年!」
 冉有もさすがにこれには驚かされた。
「いや、実に楽しみなものでございますよ。
こうして関守をしていますお蔭で、世の中のいろいろのお方にお目にかかれますのでな。」
「なるほど……」
 冉有は気のない返事をした。
「それでも、最初のうちは慣れないせいで、惜しいと思うお方を、ずいぶん取り逃がしたものでございますよ。
しかし、もうこの頃では、すっかりコツがわかりましてな、これはと睨んだお方なら、一人残らずお目にかかれているのでございます。
これがまあ、永年勤めた関守の役得というものでございましょうかな。」
 冉有は少し腹が立ってきて、天井を睨んだまま、返事をしなかった。
「それはもう、先生がお疲れでいらっしゃることは、よく存じて居ります。
で、ほんのちょいと、二言三言お言葉をおかけ下さる間だけで宜しうございます。
どうも、お通りがかりにちらとお顔を拝しただけでは、この老爺(ろうや)の気がどうにも落ちつきませんでな。
それに、孔先生といえば、これまで私がお目にかかりましたお偉い方々が、総がかりでお向かいになっても及ばないほど、大変なお方のように拝察致して居ります。
場合によっては、これを人生最高の思い出にして、私は、この関守を引退しようか、とさえ思っているくらいでございます。」
 冉有は少しきまりがよくなり、気分がよくなった。
しかし、まだすぐに取り次ぐ気にはなれなかった。
「いや、今すぐにと申すわけでございません。
明日のお立ちのときに、ちょいとお目にかかる事ができれば結構でございます。
なあに、私は、お待ちする分には、夜通しでも構わないのでございます。
よくこれまでにも、そういう事がありましたでな、はい。」
 冉有は思わず吹き出してしまった。
関守はすかさず、
「お願いができますでございましょうか。」
 と、いかにも心配そうな顔を、冉有の前につき出した。
「お伝えするだけは致して見ましょう。」
 冉有はとうとう立ち上がった。
「まことに有りがとう存じます。
なあに、お伝えさえしていただければ、間違いなくお会い下さることと存じます。
なるほどこれまでに、四の五のと言い訳を仰るお方もなかったわけではございませんが、それは大てい、お伴のお方のお指図か、さもなくば、ご本人があまりお偉くないお方の場合でありましてな。
多少でも人間の世の中のことがお分かりの方なら、下賤の者や老人の心というものを、よく酌んで下さるものでございます。」
 冉有はあきれて、運びかけた足をとどめると、関守の顔を穴のあくほどじっと見た。
関守は、しかし、その瞬間ひょいと窓の方に目をそらして、大きく腰を伸ばした。
そして、いかにもひょうきんに、
「やれやれ、これでお願いが叶いましたわい。」
 冉有は、立ちどまったまま二三度首を振った。
そして、しばらく何か思案しているようだったが、そのまま、思い切ったように部屋の奥へと入っていった。
ものの五六分も経つと、彼は仏頂面をして戻ってきた。

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