初級翻訳・論語物語 第27話

下村 湖人

そしてごく無愛想に、
「お逢い下さるそうです」
そう言って彼は、次の室にいた若い門人を呼んで、奥に案内するように言いつけた。
関守は、これまでの熱心さにも似ず、冉有の顔を見もしないで、
「そうですかい、それはそれは」
と言いながらのそのそと室を出て行った。
冉有は苦笑しながらそのあとを見送ると、椅子に腰を下して腕組をした。
(やはり取次いだのがいけなかったのだ。取次げば会おうと仰しゃるのが、先生のいつもの流儀だのに、ついあの老爺にしてやられてしまった。それにしても、先生も少し軽率じゃないかな。あれほどお会いになってはいけないというのに、いやそれは面白そうな人物だ、と仰しゃる。面白いも面白くないも、たかが関所役人ではないか。それに四十年もそんな仕事にこびりついているというのだから、大抵知れている。これから諸侯を相手に活動なさろうという矢先に、あんな老爺に会ってどうなさるおつもりなんだろう。今頃はあの老爺、きっと、さっきのように煮ても焼いても食えないようなことを、べらべら喋っているだろうと思うが、あんな気狂じみた老人を相手にされたんでは、先生も結局自らを辱しめることになるばかりだ。それにつけても、魯の大司寇で居られた頃のことが思い出される。ああした立派な官職についてさえ居られれば、こんな辱しめを受けられることもなかったろう。愚痴なようだが、やはり野には下りたくないものだ。道を楽むの何のと云っても、官職を離れたが最後、世間の評価はすぐ変って来る。それが世の中というものだ。だから先生にも餘程自重して貰わないと、さきざきどんな惨めなことになるか知れたものではない。とにかく、今日自分があの老爺を取次いだのは失敗だった)
がそんなことを考えているうちに、用達しに出ていた門人たちが四五人、どやどやと帰って来た。
彼は待ちかねていたように、すぐ事実を彼等に話した。
そして、
「ありのままを話したら、先生もまさか会おうとは仰しゃるまい、と思ったのが、僕の見込ちがいだった」
と、いかにも残念そうにつけ加えた。
「そりゃ先生は、自分が人に知られることよりは、人を知ることに、いつも心を用いていられるからね」
と、一人がしたり顔に言った。
「なあに、先生のことだ、まさかそんな奴に恥をかかされるようなこともあるまい」
と、他の一人が事もなげに言った。
「それはそうさ。しかし、そんな人間にお会いになったということ自体が、先生の値打を下げることになりはしないかね」
と、またある者が言った。
「僕が心配するのもその点だ」
と、冉有はまた腕組をして、ため息をついた。
みんなもそれには同感だった。
彼等は、自分たちの値打までが下って行くような気がしてならなかったのである。
「その老爺の君に対する態度はどうだった。教えを乞おうというような風は、ちっとも見えなかったかね」
と、一人が冉有に訊ねた。
「そんな風は鵜の毛ほどもなかった。いや、かえって僕を愚弄しているとしか思えなかったね」
「先生が大司寇でいられた頃は、下っぱの役人の眼には、われわれも一かどの先生に映っていたものだがね」
「実際だ」
みんなは憮然とした。
しばらく沈默がつづいた。
その沈默の中から、次第に足音が近づいて、しずかに室の戸があいた。
関守である。
みんなは不快な眼を一せいに彼の顔に注いだ。
彼は、然し、にこにこしながら彼等に近づいて、
「ほう、皆さん孔先生のお弟子でいらっしやいますかな」
と、小腰をかがめながら言った。
そして冉有の方を見て、
「さきほどは誠に有りがとうございました。いや、今日という今日は、この老爺も嬉しうてなりません。これで永生きをした甲斐があったというものでございます。そりゃ、これまでにもずいぶん立派なお方にお目にかかりましたが、孔先生に比べると、まるで月とすっぽんでございますよ。ちょいとお目にかかりましただけで、この胸がすうッとするではありませんか。だんだんお話を承って居りますうちに、私もすっかり頭が下りましてな。もう私の方から、何もいうことはありませなんだよ。いや、この老爺、これでなかなか負けん気が強우ございましてな、大ていのお方には一理窟こねて見ないと承知がならないのでございます。ところが今日という今日は、まるで子供になったような気がいたしました。これでうんと若返りが出来ましたわい。こう若返ったところで、すうッと死ねたら、どんなに仕合せでございましょうな。何しろ、この節のような、めちゃくちゃな世の中を見せつけられて、顰めッつらをしながら死んで行くんでは、やり切れませんからな」
冉有も、他の門人たちも、あっけにとられて老人の顔を見守った。老人は平気で喋りつづけた。
「それにしても、貴方たちは本当に素晴らしい先生を持ったものですね。若い頃からあんな先生につくことができたら、生きているのがいやだなどという気持ちには、金輪際なりませんよ。
それはなるほど、こうしてあてどなく先生のあとを追って歩いているうちは、心細い気持ちになることもあるでしょう。
なにしろ、まだ皆さんお若いですからね。
だが、先生の値打ち――いや、値打ちなどと申してはもったいないでしょうか――ええと、その、先生の本当の魂、つまり先生の心の奥の奥にある、あの憂いも、惑いも、恐れもない尊い魂にしんみりと触れて、心ゆくまでその味わい深さを噛みしめるには、ともに苦難をともにするに限りますよ。
貴方たちのなかに、万が一にも、先生が魯の大司寇(だいしこう)の職をお辞めになったことで気を落としている方がおられたなら、それこそバチが当たるというものです」

老人の顔は、次第に紅潮していった。
門人たちもそれにつりこまれて、いつの間にか姿勢を正した。

「それに第一――」
と、老人は迫るように一歩門人たちのほうへ歩み寄り、
「先生を魯の国だけに閉じ込めて、役人などにさせておくのは、もったいないとは思いませんか?」

門人たちはお互いに顔を見合わせた。
誰も返事をする者がなかった。
すると、老人の声が、急に怒鳴りつけるように彼らの耳に飛び込んできた。
「先生は、貴方たちの立身出世のために生まれておいでになったお方ではありませんぞ!」

部屋中が石のように凍りついた。
老人は少し前かがみになって顔を突き出していたが、その目が異様に光り、じっと冉有(ぜんゆう)の顔を見据えていた。
冉有は、その張り詰めた空気の中を、もがくようにして何か言おうとした。
すると老人は急ににっこり笑って手を振った。
「いや、これはつい大声を上げてすみませんでした。
まあ、貴方たちが先生のお身の上を心から気にかけていらっしゃることは、この老いぼれの目にもよく分かりますよ。
だが、天下にこれほど道がすたれてしまっては、先生にだって苦労をしていただくより手がありませんまい。
いわば、それが先生に下された天命というやつですからな。
それはそうと、この衛の国では、何かというとお上からお触れが出ましてね、そのたびに木鐸(もくたく:木製の鈴)という変な鈴をがらがら鳴らして歩くのですが、まさか魯の国ではそんな馬鹿馬鹿しい真似はなさるまいな。
あんなものはただやかましいだけで、何の役にも立ちやしません。
なにぶんお上がお上ですからね。

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