初級翻訳・論語物語 第28話

下村 湖人

私はこれまであの音を聞くたびに、いつも思っていたのですよ。
もし本当に天のお声を伝えてくれる木鐸というものがあるならば、とな」

彼はそこで探るように門人たちの顔を見回していたが、ふたたび厳粛な顔つきに戻って言った。
「お分かりですか。
貴方たちの先生こそは、これからまさにその『天の木鐸』におなりになるお方だということを」

また沈黙がつづいた。
老人は門人たちにひょこひょこ頭を下げて、
「いやいや、これは長々とおしゃべりをしてしまいました。
では、お元気で旅をお続けなさいませ」
そう言うと、彼はのそのそと部屋を出て行った。
門人たちは身じろぎもせず彼の後ろ姿を見送っていたが、彼が戸の外へ姿を消すと、冉有は急に目が覚めたように立ち上がり、あたふたと孔子の部屋へと駆け出していった。

1 子曰く、人の己を知らざるを患えず、人を知らざるを患うと。
(学而篇)

—

磬(けい)を撃つ孔子

子、衛(えい)に磬を撃つ。簣(き)を荷(に)いて孔子の門を過ぐる者あり。
曰く、心あるかな、磬を撃つや、と。
既にして曰く、鄙(ひ)なるかな、※※乎(こ)たり。
己を知るなくんば、斯(こ)れ已(や)まんのみ。
深くば則ち※(せつ)し、淡くば則ち掲(けい)すと。
子曰く、果(か)なるかな、これ難きことなしと。
――憲問篇――

孔子が魯の定公(ていこう)と、その権臣である季氏(きし)に敬遠されて、故郷をあとに長い漂流の旅に出たのは、五十六歳の時であった。
彼はまず衛の国へ行き、門人・子路(しろ)の夫人の兄にあたる顔讎由(がんしゅうゆう)の家に身を寄せることにした。
衛の霊公(れいこう)は放逸な君主ではあったが、政治的な思惑から孔子を自分の国にとどめておきたかった。
しかし、彼をいかに厚遇すべきかについては、まだ決心がつかずにいた。
孔子は、手厚い待遇よりも自分の政治的信念を実現する機会がほしかったため、一縷(いちる)の希望をつないで静かにその時が来るのを待つことにした。
こうした時、彼の心を最も慰めてくれたのは、ほかならぬ音楽であった。
彼はたびたび詩を吟じ、瑟(しつ:弦楽器の一種)を弾き、磬(けい:石の打楽器)を打ち鳴らした。
今日も彼は、一人で朝から磬を撃っていたが、その音は門の外に響き渡り、水晶の玉が触れ合うかのように澄んだ空気の中を流れていった。

「おや?」
モッコを担いだ百姓姿の一人の男が、門の前で足を止めた。
「いい音だ。
だが、まだだいぶ俗気が残っているな」
そう言うと、彼はまた歩き出した。
歩きながら、彼はわざとらしい様子で、ペッと唾を吐き捨てた。孔子のお伴をして来ていた門人の冉有が、丁度その時、門をくぐって外に出るところであった。
彼は、この異様な百姓の言葉を聞きとがめた。
(変な奴だな。)
彼はそう思って、じっと男のうしろ姿を見送っていた。
すると百姓は、それにとうから気づいていたらしく、くるりと向きをかえて、二三歩冉有の方に近づいて来た。
彼は、顔一ぱい皺だらけにして笑っていた。
間もなく笑いは消えた。
しかし、笑いが消えたかと思うと、長い舌がぺろりと鼻の下に突き出していた。
(気狂いだな。)
と、冉有は思った。
そしてその男の立っているのとは反対の方向に、歩き出そうとした。
すると、その男は、だしぬけに大声を立てて笑い出した。
冉有は、もう一度彼を振りかえった。
「ほう、お前さんもやっぱり色気組の方かな。」
そう云って、その男は、おいでおいでをした。
冉有は、気狂いだとは思いながら、あんまり馬鹿にされたような気がして、腹が立った。
彼は、立ったまま、ぐッと彼を睨みつけた。
「ふッふッふッ、そんなおっかない顔をするもんじゃない。
それよりか、あの磬の音を聞かっしゃい。」
「磬の音がどうした?」
「上手ではないかな、一寸。」
「お前にも、それがわかるのか。」
「わかるとも。
ようわかる。
それ、ちょいと色気のあるところが可愛いいではないか。」
「何をいうんだ!」
「ほう、また怒った。
そんなに怒ると、人間が下品に見えるがな、あの磬のように。」
「なに! あの磬の音が下品だと?」
「そうとも。
ちょいと可愛いいところもあるが、下品じゃよ。
ほら、よっぽど執着がましい音がするじゃないか。
だいぶ腹も立てているらしいな、尤もお前さんの腹の立てかたとは、少々値打がちがうが……」
冉有はいささか気味わるくなって歩をうつそうとした。
「わッはッはッ、今度は逃腰か。
腹を立てたり、逃腰になったりは、見っともない。
もっとさらりとは行かないものかな。」
「それは、私のことか。」
冉有は勇を鼓して云った。
「そうじゃよ。
それに、あの磬を撃っている人も同じさ。」
「磬を撃っている人は、今の時世に聖人とも云われているほどの人だ。」
「よっぽと融通のきかない聖人様じゃな。」
「…………」
冉有は、相手があんまり無茶をいうので、すっかり度胆をぬかれて、返事も出来なかった。
「そうではないかな、自分を知る者がなけりゃ、あっさりすっこんでいりゃいいのに、方々うろつき廻ってさ。
ふッふッふッ、時勢を知らないのにも程があるよ。」
「あの先生は……」
「ほう、あれはお前さんの先生か。
なるほど、そう聞けば、よう似たところがあるわ。
お前さんも、世には捨てられ、世は恋し、という方じゃな。」
「…………」
「世の中がそれほど恋しけりゃ、わがままを云わないで、あっさり誰かに使って貰ったら、どうじゃな。
それとも、わがままが云いたけりゃ、奇麗さっぱりと世の中を諦めるか。」
冉有は、すっかり云いまくられて、眼をぱちくりさしていた。
すると、その男は、だしぬけに大声をあげて歌いながら、頓狂な恰好をして、向うの方に行ってしまった。
「わしに添いたきゃ、渡っておじゃれ、
 水が深けりゃ、腰まで濡れて、
 浅けりゃ、ちょいと、小褄をとって。
惚れなきゃ、そなたの気のままよ。」

冉有は狐につままれたような気がして、永いこと彼を見送っていたが、ふと吾にかえって、これが世にいう隠士だな、と思った。
彼は、その頃、百姓や樵夫の姿をした隠士たちが方々にいることは聞いていたが、実際に出遇したのは始めてであった。
で、非常に珍らしい事件にでもぶッつかったかのように大急ぎで門内に引きかえし、息をはずませながらすべてを孔子に報告した。
孔子は聴き終って、歎息をもらしながら答えた。
「思いきりのよい男じゃな。
しかし、一身を潔くするというだけのことなら、大して難かしいことではない。
難かしいのは天下と共に潔くなることじゃ。」
冉有はその言葉をきくと、やっと落ちついて、再び用達しに門外に出た。
竈に媚びよ

王孫賈問いて曰く、其の奥に媚びんよりは、寧ろ竈に媚びよとは、何の謂ぞやと。
子曰く、然らず。
罪を天に獲ば、祷る所無きなりと。
――八※篇――

孔子は、一日も早く衞の国を去りたいと思った。
それは、霊公が彼に対して、粟六万を贈るほどの好意を示したのも、単に君主としての体面を飾るためであって、政治の上に少しでも彼の意見を反映させようとする、真面目な考えからではない、と見て取ったからである。
加うるに、公の夫人南子は乱倫の女であった。

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