「お前さんは誰かね?」
子路は答えました。「仲由(子路)と申します」
桀溺は言いました。「それじゃあ、あの魯の孔丘の弟子だな?」
子路は答えて言いました。「はい、そのとおりです」
桀溺は言いました。
「世の中はまるで濁った大河の水のようにおお荒れで、どこもかしこもどうしようもない連中ばかりだ。
それなのに、お前たちは一体誰について世直しをしようというのか。
どうせ世間の泥から逃げ回るような(隠者のような)連中についていくくらいなら、いっそこんな世の中そのものから背を向けて逃げ出す連中についていったほうが、よっぽどましなんじゃないのかね?」
そう言って、二人は手を休めず、くわで土を耕し続けました。
子路はそのもとを離れて、孔子に今のやり取りを報告しました。
先生はがっかりしたように(ぼんやりとした様子で)言いました。
「人間は、鳥やけものと一緒に群れて暮らすわけにはいかない。
もし私がこの世の人間たちとつき合わないとしたら、いったい誰とつき合えばいいというのだ。
もし天下に正しい道が行き渡っているなら、この私が世の中を変えようなどと骨を折る必要もないのだがねえ……」
――微子篇――
春とはいえ、風はまだ冷たかった。
西に傾きかけた太陽が、雲に隠れたり現れたりするたびに、野原全体が明るくなったり暗くなったりしていた。
葉公に見切りをつけ、楚の国から蔡の国へと引き返す孔子の心は、どこか寂しさを帯びていた。
彼は馬車に揺られながら、目を固く閉じ、じっと物思いにふけっていた。
手綱を握っている子路は、もう三十分近くも一言もしゃべらずに黙りこくっている。
ほかの弟子たちもすっかり疲れ果てた様子で、馬車から三、四町(約三百〜四百メートル)ほど遅れながら、黄色い土煙の中をとぼとぼと足を引きずりながら歩いていた。
「みんなをしばらく休ませてやったらどうだろうか」
孔子はふと思い出したように車の中から顔を出し、一行の様子を見渡しながら、子路にそう声をかけた。
「はあ……」
子路は気のない返事をした。
馬車は相変わらず、ガタゴトと音を立ててきしみ続けている。
「みんな、だいぶ疲れているようじゃないか」
孔子は、少し子路をたしなめるような軽い口調で言った。
「もうすぐ川の渡し場に着くはずでございます」
子路は面倒くさそうな顔をして、ぶっきらぼうに答えた。
孔子もそれきり黙ってしまった。
それから十五、六分ほど経ったころ、子路は突然、自分の判断で馬車をピタリと止めた。
孔子は、いよいよ渡し場に着いたのかと思って顔を出してみたが、そうではなかった。
目の前で、道が二つに分かれていたのだ。
子路は手綱を握ったまま腕を組み、じっと前方の分かれ道を見つめている。
「どうしたんだね……。ここで休むのかい?」
孔子は上体を半分ほど車から乗り出して言った。
「渡し場へ行く道はどちらなのか、考えているところでございます」
孔子はクスリと微笑んだ。
そして、その武骨な子路の後ろ姿を黙って見つめていた。
しかし、子路はいつまで経っても、まるで木彫りの人形のようにピクリとも動かなかった。
「考えただけで道がわかるのかね?」
孔子はふと、そんな意地悪な冗談を口にした。
最近、なぜか子路に対してだけは、こういう軽い皮肉がふっと口をついて出てしまうのだった。
しかし、子路の顔には、いつもなら見せるような反応が全く現れなかった。
彼は相変わらず前方をにらみつけたまま、まるで反発するかのようにぶっきらぼうに答えた。
「わかります、わかると思います」
孔子はもう微笑まなかった。
彼は、子路が心に何か迷いを抱えているときにはいつも、自分に対して無愛想になるという癖をよく知っていた。
(子路は、渡し場への道のことばかりを考えて悩んでいるわけではないな)
孔子はそう思った。
そして、子路が何に迷っているのかについても、だいたい見当がついた。
(子路にとって、こうして寂しい旅を続けることは無理もないことだ。彼は、こういう先の見えない旅には、弟子たちの中で一番似合わない男なのだから)
しかし、孔子は口に出してあれこれと言ったりはしなかった。
彼は、かわいそうに見つめるような目をしばらく子路の横顔に注いでいたが、やがて視線をそらし、道のあたりを見回した。
左手に墓地のような小高い丘があり、すぐその手前で、二人の農夫がせっせと土をいじっているのが見えた。
道から一町(約百メートル)も離れていない距離だった。
彼は急ににこにこしながら、子路に言ったおい。
「ひとりで難しい顔して考えているより、あそこの人に尋ねたほうが早いんじゃないかね。ほら、あそこに人がいるよ」
「はあ――」
子路は、やっとのことで孔子のほうを振り返った。
まるで孔子になんと言われたのかがすぐには理解できなかったかのように、きょとんとした顔をしている。
「すぐに行って、渡し場がどちらか尋ねておいで。馬車の手綱は私が持っていてあげるから」
「これはご丁寧に……恐れ入ります」
子路は、いかにも慌てた様子で何度も頭を下げた。
そして、孔子の手に手綱を渡すと、大急ぎで二人の農夫のほうへとかけ出していった。その後ろ姿は、どこかクスッと笑ってしまうような面白さがあった。
しかし孔子は笑わなかった。
彼は胸の奥に何とも言えないしみじみとした温かさを感じながら、子路から目を離さなかった。
「おい!」
子路は、まだ七、八間(約十数メートル)も手前で立ち止まると、大声で農夫を呼んだ。
しかし農夫は顔を上げようともしなかった。
子路は仕方なく、さらに二、三間ほど進んでからもう一度声をかけた。
だが二人は振り返りもしない。
馬車の中からこの様子を見ていた孔子は、相手がただの百姓ではないらしいと感じた。
そして、子路の少し無作法なやり方が気にかかり始めた。
(もし相手が噂の隠者(世捨て人)だとしたら、子路は少し手こずるかもしれないな)
孔子はそう思った。
だが同時に、子路と農夫の間でどんなやり取りが交わされるのかを想像すると、何だか少し面白そうだなとも感じた。
子路が一体どんな顔をして戻ってくるのか、心配なような、待ち遠しいような気持ちになりながら、彼は相変わらず子路の背中を見つめていた。
一方の子路は、農夫たちがまるで自分の声など聞こえていないかのように無視するので、腹が立って仕方がなかった。
それでも仕方なく、二人のすぐそばまで歩いて行った。
そして、怒鳴りつけるような声で言った。
「おい、これだけ呼んでいるのに聞こえないのか!」
背のひょろりと長い方の農夫が、ふっと顔を上げ、じろりと子路を睨みつけた。
そして変にからかうような笑いを漏らしたかと思うと、またすぐに下を向いて作業に戻ってしまった。
三、四寸(約十センチ)ほどのあごひげを垂らした、五十歳くらいの、どこか気品のある顔立ちだった。
その男こそが、長沮という隠者であった。
子路はこの時になって初めて、「しまった」と思った。
そこで少し照れくさそうに、急に態度を丁寧にして言った。
「いや、これは失礼しました……実は、渡し場へ行く道が分からなくなってしまいまして……」
すると、長沮が再び顔を上げて子路を見た。
今度は先ほどのような意地悪な顔はしていなかった。
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