しかし返事をする代わりに、道路の方に目をやり、そこに停まっている孔子の馬車を見つけると、もう一度胡散臭そうな目で子路の顔を見た。
「渡し場の方に行きたいのですが……」
子路は少し腰をかがめながら、もう一度尋ねた。
「あれは誰かね。あの上で馬車の手綱を持っているのは」
子路は、自分の質問には答えず、すまし顔でそんなことを逆に問い返してきた相手の横着さに腹が立ったが、ぐっとこらえて丁寧に答えた。
「あれは孔丘というお方でございます」
「孔丘というと、あの魯の孔丘のことかい?」
「そうでございます」
「それなら、渡し場くらい自分で知っていそうなものだがね。年がら年中、あちこちをうろついている男なのだからさ」
そう言うと、長沮はすぐに腰をかがめてクワを動かしはじめた。
そしてそれっきり、子路が何を言っても、まるで口のきけない人のように黙り込んでしまった。
子路はあっけにとられて呆然とした。
その間、もう一人の農夫――こちらは桀溺というずんぐりとした男だった――は、周囲で何が起きているのかなどまるで知らないかのような顔をして、耕された土にせっせと種をまき続けていた。
子路は、長沮に比べればこちらの男のほうがまだ気が良さそうだなと思った。
そこでその男に近づいていき、もう一度、渡し場への道を尋ねた。
「なんだ、渡し場だと……」
桀溺は顔も上げずに答えた。
「ええ、渡し場に行きたいのですが、右に行ったほうがよいでしょうか、それとも左でしょうか……」
「右でも左でも、自分の好きな方に行けばいいさ」
「どちらから行っても同じでしょうか?」
「同じじゃないな」
桀溺はそう言うと、ひょいと顔を上げた。
赤ら顔で、目が小さく、あごひげはほんのちょっぴりしか生えていない。
長沮よりも年は三、四歳ほど若いようだった。
「同じじゃないよ」
彼はもう一度そう言い、にっこりと笑った。
小さな目がぷっくりとした肉に埋もれてしまい、まるで大きな笑いじわのように見えた。
子路には何が何だかさっぱり分からなかった。
怒ることも笑うこともできず、子路がポカンとしていると、桀溺は急に笑うのをやめ、じっと子路の顔を見つめながら言った。
「お前さんは一体誰だい?」
「仲由という者でございます」
子路は素直に自分の名を名乗った。
「仲由? ということは、お前もやっぱりあの魯の孔丘の仲間ってわけかい?」
「そうでございます、門人の一人でございます」
「ふふふ――」
桀溺は出し抜けに笑い出した。
それはまるでコンニャク玉がぶるぶる振動し、その割れ目からプシューと湯気が吹き出すような、何とも変わった笑い方だった。
子路は、孔子の門人だと答えたことを笑われたので、さすがにカチンときて顔を真っ赤にした。
しかし相手は、子路のそんな様子など気にも留めていない様子で、そっぽを向きながら言った。
「孔丘の仲間なら、渡し場が分からないのも無理はない。まあ、お気の毒なことだな」
子路はついに我慢の限界を超え、思わず腕まくりをし出した。
「おっと、仲由さんとやら、それはいけない。そうやって腕まくりをしたところで、世の中の物事がうまく片づくわけじゃない。それよりも、お前さんは一体、今の世の中をどう考えているんだい?」
子路は、せっかくまくり上げた両腕をだらりと下ろし、目をパチクリさせるしかなかった。「何処も此処も、どろどろの沼みたいになっているのが、今の世の中じゃないかね。え、仲由さん。」
「そうです。たしかにそうです、だから……」
「だから渡し場を探していると、おっしゃるのかい。そりゃもう、よーくわかっとる。だが、どの渡し場も気に入らないのが、お前さんの先生ではないかね。」
子路は、相手が孔子をからかいそうになったので、また両腕に力を入れた。
しかし、彼は心の中で、相手のいうことに何かしらの共鳴を感じていた。
うまいことをいう男だな、と思った。
そして、内心自分が孔子に対して抱いている不満を、この男の口をとおして代弁してもらいたいような衝動に駆られた。
彼は力みながら相手の顔を見つめた。
「沼に船を浮かべては見たいが、泥水のとばっちりをかぶるのはまっぴらだ、と云うんじゃ、お前さんの先生も、少々虫がよすぎはしまいかね。今時、何処をうろついたって、満足な渡し舟なんか見つかりやしないよ。わかるかね、仲由さん。どうせ今の世の中が泥水の洪水みたいなものだとわかったら、なるべく洪水の来ない山の手に避けているのが一番だよ。『洪水だ、洪水だ』とわめき立てて、わざわざ自分で泥水のそばまで行って、そこから逃げ回っているなんて、そもそもおかしい話さ。第一、見っともないじゃないかね。」
子路は、半分は感心したような、半分は腹を立てたような、何とも言えない変な顔をして突っ立っていた。
「おや、そのお顔はどうなすったい。孔丘の仲間だけあって、お前さんもよっぽど物分かりの悪い人間らしいね。そう世の中に未練があっては話がしにくいがね。しかし、五十歩百歩ということもある。あの殿様もいやだ、この殿様もいやだなんて言うくらいなら、ちょいと一つ飛び越して、この世の中全体に見切りをつけてみる気にはなれないものかね。気楽に高見の見物ができるってものだし、そりゃあいいものだぜ。わっはっはっ!」
「しかし……」
と、子路は非常に真剣な顔をして、何か言いかけた。
だが、桀溺はもうその時には、その丸いお尻をくるりと子路の方に向けて、せっせと種をまき続けていた。
そして、それっきり、子路が何と言おうと一言も返事をしなかった。
子路は、なぜか、もう腹が立たなかった。
彼は、これまでにも何度か隠者に出会ったことがあったが、今日ほどバカにされたことはなかった。
肝心の渡し場は教えてもらえないし、おまけに孔子も自分もすっかり台なしにけなされてしまったので、ふだんの彼なら、黙って引き下がるような相手ではなかった。
しかし、今日の彼は、なんだか急にしんみりとした気持ちになっていたのである。
隠者たちのものを茶化すような態度には、彼もさすがに好意を持てなかった。
しかし、彼らがいかにも自由で、平安で、自分の生き方を貫いているらしいことには、彼は強く心を打たれた。
孔子の持っていない、ある高いものを彼らは持っているのだとさえ、子路には思えたのである。
彼は黙ってきびすを返した。
彼は歩きながら、ふと孔子の馬車を見た。
そして、その中にしょんぼりと座っている孔子の姿を想像した時、彼の目頭が急に熱くなった。
彼は、いっそのこと思いきり孔子を問い詰めてやりたいような気持ちにさえなった。
そして、一目散に馬車のところへと走り寄った。
少し遅れてやって来ていた門人たちは、すでに馬車の周りに集まって、何やら熱心に孔子と話をしていた。
彼らは子路が走ってくるのを見ると、話をパッとやめて、一斉に子路の方に顔を向けた。
しかし、子路は誰の顔も見なかった。
彼は乱暴に門人たちを押しのけ、いきなり馬車の窓枠に両手をかけた。
孔子は微笑みながら言った。
「どうしたのかね、えらく時間がかかったではないか。」
しかし、子路は言葉が出なかった。
彼は何度も拳で荒っぽく目をこすりながら、ただ息をハァハァと弾ませていた。
「隠者らしかったね。
初級翻訳・論語物語 第39話
下村 湖人
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