(もう一度、絶対に先生を元気にしてやるぞ!)
いつもの熱い気性が、急に彼の体じゅうによみがえってきた。
彼は、だんだん自分の足音が大きくなっていることも忘れ、あれこれと今後の看病の方法を必死に考え続けた。
しかし、いくら頭をひねっても、これまで以上のいい方法はどうしても思い当たらなかった。
(人間の力では、もうどうすることもできないというのか……!)
そう思うと、彼は再び、自分の胸の奥がまるで雪だるまが溶けるようにスーとしぼんでいくのを感じた。
彼は深い溜め息をつきながら、また椅子にドスンと腰を下ろした。
そして、何か藁にもすがる思いで、とにかく何でもいいからすがりついてみたい気持ちになった。
自分で自分をいくら叱ってみても、もう追いつかなかった。
自分を叱る気力さえも、次第になくなっていってしまったのである。
(この上は、神仏(鬼神)にお願いするよりほかに方法はない!)
そう思い詰めた彼の心は、悲しみと痛みに満ちていた。
彼はこれまで、しっかりと人間の踏み行うべき正しい道を歩むことだけを、常に孔子から教えられてきた。
いつぞや彼が死についての疑問を尋ねたと同時に、神仏に仕える道について尋ねたときにも、孔子は「まずはひたすら人に仕えよ。人に仕える道すらわからないのに、どうして神仏に仕える道がわかるものか」と教えてくれたのだ。
それ以来、彼はその教えをしっかりと守り、どんなに苦しいときであっても、自分たちの努力のほかに、神仏の力を頼みにしたことは一度もなかった。
彼はそれを思うと、今さら神仏に祈るなんてことが、いかにも情けなくて残念でたまらなかった。
(なんて自分は無力なんだろう……!)
そう思うと、彼は悔しさで歯ぎしりをした。
しかし、今回の祈りが自分自身の命乞いのためではないという一点において、彼はほんの少しだけ救われるような気がしていた。
それに、もし万が一、この祈りによって孔子の命が助かるものなら、求道者としての自分の恥辱などどうだっていい。かりにそのせいで孔子に破門されたとしても、自分は少しも後悔しないだろう――とさえ彼は本気で思ったのだ。
こうした複雑でごちゃまぜになった感情を抱えながら、彼はもう一度部屋の中を行ったり来たりと歩きまわった。
そして、ついにその計画を実行することを決心すると、彼は誰にも何も告げず、そっと門の外へと飛び出した。
それから数時間が経った。
ほかの弟子たちは、日頃は看病に一番熱心な子路が、行き先も告げずに突然姿を消したことを不思議がり、とても心配した。
しかし彼らは、子路が一冊の本をわきに挟み、あわただしく病室に駆け戻ってきたのを見たときには、さらにびっくり仰天した。
「先生、お願いがございます!」
子路は孔子の枕元に近づくと、息を切らせながら言った。
「何じゃな……?」
孔子は、これまでずっと閉じいていた目を、かすかに見開いた。
「お祈りをさせてほしいのです! 先生の病気がよくなるようにお祈りがしたいのです!」
「だしぬけに、何を言い出すのかね。昔からの正しい教えには、そんなお祈りなどないはずじゃが。」
「あります、あります! 現に先生が編集なさった『周礼(しゅらい)』の中にもちゃんと載っております。お祈りの言葉である『誄(るい)』の中に、『汝(なんじ)を上下の神々に祈る』と書かれているのです!」
子路は、自分が持っていた本をあわててパラパラとめくり、その場所を孔子に見せた。
孔子はふっと微笑んだ。
しかし、それ以上は何も言わず、そのまま静かに目を閉じてしまった。
「先生!」
子路は少しせき込むようにして言った。
「実は、先生に叱られるのを覚悟の上で、こっそり私一人でお祈りする決心をしていたのです。ですが、お祈りの正しいやり方がわからなかったので、先ほど少し時間をいただいて調べているうちに、この言葉を見つけたのです。古からの正しい道にもそれがちゃんとある以上、何も先生に隠れてこっそりお祈りする必要もないと思い直しまして、改めてお願いに上がったのです。先生、どうかお祈りをさせてください! 先生のために、私たち弟子たちのために、そして世界中の人たちのために!」
孔子はカッと大きく目を見開いた。
その目は、病人のものとは思えないほど、強い光を放って輝いていた。
彼は子路の顔をしばらくじっと見つめると、こう言った。
「わしは、お前に祈ってもらわなくとも、ずっと昔からこのわし自身で祈っているのじゃ。」
「ご自身で……ですか?」
子路は驚きのあまり、自分の顔を孔子の顔にぐっと近づけた。
ほかの弟子たちも、一体どういうことかと怪訝そうな顔をして、じっと孔子の目元をのぞきこんだ。
「そうじゃ、もう何十年もの間、ずっと休むことなく祈り続けているのじゃよ。」
「何十年も……ですか?」
「わからないかね、わしがこれまで何のために祈り続けてきたのかが?」
弟子たちはただ顔を見合わせるばかりで、誰も言葉が出なかった。
孔子は、すべてを包み込むような深い溜息をついて目を閉じた。
しばらく気まずい静寂が続いたあと、孔子は目を閉じたままさらに問いかけた。
「そもそも、『祈る』というのは、いったい何をすることだと思っているのかね?」
「それは、神々に対して自分たちの願いを……」
孔子は子路の言葉を遮るように、再びカッと大きく目を見開いた。「願い? ふむ、その願いというのは?」
「…………」
子路は、自分の考えどおりの言葉を口にするのをためらった。
それは、孔子の言葉の裏に何かとても深い意味があることに、彼もようやく気づき始めていたからだった。
孔子は静かに言った。
「その願いというものは、自分だけの私情や私欲から出たものであってはならないはずじゃ。
むしろ、自分の私情や私欲にしっかりと打ち勝って、大自然や天地の神々の心にかなおうとする願い――そうした濁りのない、純粋な願いに生きることこそが、本当の祈りというものなのじゃよ。
そうではないかね?」
子路は、まるで石像のようにガックリとうなだれたまま立っていた。
「念のために言っておくが、わしは決して天地の神々を否定もしていなければ、軽んじてもいない。
神々を心から敬っているからこそ、その神々の御心(みこころ)にかなう生き方をしようと、今日まで休むことなく自分を磨き続けてきたのじゃ。
祈りに祈りぬいた人生、それがわしの一生だったと思ってほしい。
お前がさっきその本で見せた『誄(るい)』の言葉も、そのような深い意味として受け止めてこそ、本当の味わいが出てくるというものじゃよ。」
「先生、本当に申し訳ありませんでした!
私の浅はかな考えから、かえって先生に余計なご心配をおかけしてしまいまして……」
「いやいや、学問をするということはそういうことじゃ。
特に、お前がそこまでわしの身を案じてくれるその心は、骨身にしみるほど嬉しいぞ。
そうした真心も、人としての正しい道を極めようとするなら、一つの立派な道じゃ。
いや、これこそがまさに、道が芽生えるための大切な種というものだ。
だがね、わしの肉体をただ生き長らえさせるために、わしが命をかけて守ってきた大切な精神を殺すような真似はしないでくれ。
わしは永遠に生きたいのじゃ。
初級翻訳・論語物語 第44話
下村 湖人
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