初級翻訳・透明人間 第12話

海野 十三

「おい、かわったやつじゃねえか。
気をつけたほうがいいぜ」
 ハクスターがホールにささやいた。
男は、ぐいぐいと流しこむようにたてつづけていく杯ものみ、口のはたをてのひらでぬぐうと立ちあがって、中庭にぶらりとでていった。
たばこに火をつけ、ぶらぶらと庭を歩きまわっている。
いかにも、ものうそうだった。
が、ハクスターは、男がときどき、ちらりと客部屋の窓にするどい視線を送っているのを見のがさなかった。
どさり!
 重い物が窓からおちる音がした。
男は身をかがめて、落ちてきたテーブルクロスに包んだ大きな包みと、三冊のノートを、小わきにかかえこむとみると、うさぎのようなすばやさで木戸から大通りへ走りでた。
「どろぼう!」
 さっととびあがったハクスターは、いちもくさんにかれのあとを追った。
「どろぼうだっ! つかまえてくれ!」
 ホールも、ハクスターのあとを追ってかけだした。
外には、あかるい日の光がさんさんとふりこぼれ、着かざった人びとがのどかにゆききしていた。
シルクハットをかぶり、大きな包みをかかえたおかしな人かげは、風のように街路をかけぬけ、街かどをまがって丘へむかって走っていった。
「どろぼうだ! つかまえてくれ」
 ホールとハクスターは声をかぎりにわめいた。
しかし、往来の人びとは、あっけにとられて、ただ見送っているばかりだった。
とある街かどまできたとき、やっとこさで男に追いついた。
「こんちくしょうめっ! もう逃がさんぞ、つかまえたぞ!」
 おどりかかったと思ったそのとき、ハクスターは、目に見えないなにものかに、むこうずねを力いっぱいけとばされた。
「わっ!」
 ふいをうたれたハクスターはもんどりうって道にたおれ、それっきり気を失ってしまった。
つづいて同じようにおどりかかっていったホールも、ものの見事に投げとばされ、腰の骨をしたたかうって起きあがれなくなった。
シルクハットの男は、そのまま、すごいいきおいで丘のほうへ姿を消していった。

正体が知れると

 夕ぐれがせまってきた。
シルクハットをかぶったれいの男が、ぶなの並木をぬうようにして、ブランブルハースト街道をいそぎ足で歩いていた。
テーブルクロスの包みとノートは、やはりだいじそうに小わきにかかえている。
いつのまにか、トーマスの足どりがしだいにおそくなり、のろのろと悲しげな顔つきで考えこみながら歩いていると、空中からせかせかした声がひびいてきた。
「おい、さっさと歩け。
なにを考えてるんだ。
また、さっきのようにおれをまいて逃げようというのかい? こんど逃げてみろ、ただではおかないからな」
「逃げようなんて、そんなことは考えてませんよ。
あっ、そんなに肩をつっつかねえでくだせえ。
おいら、いまに傷だらけになってしまいますぜ」
 トーマスは、しおしおとこたえた。
空中の声はなおも意地わるく、
「いいか、こんど逃げようとしたら、殺してやるからな」
「とんでもねえ。
おいら、あんたをまいて逃げようなどとは、これっぽっちだって考えていませんよ。
ただ、どこでまがったらいいかわからなくて、あのまがり角へはいりこんじまったんですよ。
あっしはこのへんの道はちっとも知らねえんです。
そんなおそろしいことを言わねえでくだせえ」
 浮浪者のトーマスは、いまにも泣きだしそうだった。
目にみえて元気を失い、あきらめきったようすで、とぼとぼと歩きつづけた。
空中の声は、もちろん言わずとしれた透明人間である。
かれは黒馬旅館でうばってきた衣類と、研究ノートの包みをトーマスにもたせ、どこへゆこうとしているのか、しきりに先をいそいでいた。
「なあ、トーマス、アイピング村のばか者どもが、考えなしの大さわぎをおっぱじめやがったおかげで、おれの姿が透明で着物を身につけさえしなければ、だれにも姿をみられなくなるってことは、みんなに知られてしまったんだ。いまいましいじゃないか。
そこで問題はこれから先どうするかってことだ。
どうせ、やつらはおれを追いまわすにきまってるだろうし……なにかいい考えはないか」
「だんな、あっしにいい考えなんてあるはずがないですよ」
 しばらく二人は、だまって道をいそいだ。
しだいに夕やみがあたりをつつんで、遠くの家の灯がちらほらと見えてきた。
トーマスは疲れきっていた。
小わきにかかえた包みが、しだいに下にずり落ちていった。
「おい、ぼやぼやするな。
しっかりと荷物をかかえて歩け。
そのノートはだいじなんだ。
なくすんじゃないぞ、しっかり持ってろ!」
 いきなりするどい声がして、トーマスの肩をぐいと透明人間がついた。
トーマスはあわてて、ずるずると包みをひきあげ、しっかりとかかえなおしてから、泣き声をあげ、
「だんな、だんなはあっしをなんに使おうとおっしゃるんで……はじめは旅館からだんなの荷物をもちだす手伝いをしてくれとおっしゃった。
それがすむと、あっしの役目はおわったはずなのに、やはりあっしをはなしてはくださらねえで、こうして荷物をかかえてだんなのいくほうへつれてゆきなさる。
いったい、どういうお気もちなんでごぜえますか?」
「つべこべいうな、おまえみたいなやつでもおれにはいり用なんだ。
それに、いまにわしが仕事をやりはじめれば、どうしてもおまえの手伝いがいるようになるのだ」
「なにをおやりなさるのかしらねえが、あっしはとても、だんなの役には立ちましねえ。
だいいち、じまんではねえが、力はないし、そのうえ、心臓もよわいんです。
せいぜい、さっきぐらいのことしかやれねえですよ。
度胸はねえし、びくびくしながら手伝ったところで、あんまり役にもたたねえでしょう」
「力がないのはこまるな、見かけだおしなのか……まあいいさ、それに、なにもびくびくすることはないんだ。
おれはだいそれたことをたくらんでいるわけじゃないし、おれがいつもくっついててやるから、おれのいうとおりにやればいいんだ」
 トーマスは首をすくめ、ちょっと考えていたが、思いきって、
「だんながいくらこわがらなくてもいいとおっしゃっても、あっしはうす気味わるくて死にてえくらいでさあ。
いってえ、どんなことをあっしにしろとおっしゃるんで……あっしだって、いやならいやとおことわりできる権利があるんですがね」
「だまれ! だまれ、だまれ。
だまっておれのいいつけどおりにしていればいいんだ。
おまえは利口な人間じゃないし、あまり役に立ちそうもないが、おれのいいつけどおりにやりさえすれば、おれはいつもおまえを守っていてやろう」
 透明人間は、強い力でぐっとトーマスの手首をつかんで、しかりとばした。
「わかってますよ。
どうせ、あなたがあっしをはなしてくれないぐらいのことは、知ってまさあね」
 トーマスは、シルクハットをかぶった頭をたれ、しずみきって歩いていった。
村をすぎていったじぶんには、あたりはとっぷりと日がくれ、美しい星がきらきらと空にかがやきはじめていた。
ポート・ストウ村で

 よく朝の十時ごろ、トーマスはポート・ストウ村にたどりついた。
旅のほこりをあび、つかれた顔をして村はずれの宿屋のまえのベンチにすわりこんでいた。

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