初級翻訳・透明怪人 第24話

江戸川 乱歩

ところがもっとふしぎなことには、その赤い道化師がフラフラと中村係長の前に近づいたかと思うと、いきなり一枚の広告ビラを係長の目の前につきだしたのです。
係長はあっけにとられて道化師をにらみつけていましたが、ふと考えなおしてつきつけられた広告ビラをうけとりました。
すると道化師はそのままどこかへたちさってしまいました。
赤い道化服がやみのなかへとけこむように消えていったのです。
中村係長はそのへんの街灯の下までいって広告ビラを読んでみました。
それは印刷した広告ではなくてペンで書いた手紙のようなものでした。
明智小五郎はいまあるところで透明人間にされている。
名探偵のからだはこく一こくとガラスのようにすきとおってゆくのだ。
じゃまをするやつはみな透明人間にされるんだぞ。
きさまたちも気をつけるがいい。
「あいつをおっかけるんだ。いまの道化師をとっつかまえるんだ」
中村係長はきちがいのようにどなってもと来たほうへかけだしました。
黒川記者と小林少年はわけはわからぬけれどもそのあとにしたがいます。
走りながら係長はビラの文句をふたりにしらせました。
「それじゃやっぱり先生は透明怪人にどっかへつれてゆかれたのですね」
小林君が走りながらさけびました。
「そうだ。それにいまの道化師も透明怪人だったかもしれない。中村さん、いまのやつの顔を見ましたか。目が黒い穴だったでしょう。顔がちっとも動かなかったでしょう。あれはろう仮面ですよ。ろう仮面におしろいをぬったのですよ」
黒川記者も走りながら息をきらしてさけびました。
ヘッド・ライトをけした自動車のそばまでもうどってのぞいてみますと、運転手のすがたが見えません。
どこへいったのでしょう。
三人は立ちどまってあたりを見まわしました。
ふしぎな早わざ
するとむこうの町かどに運転手が立っているのに気づきました。
かれはこちらにむかって手まねきをしているのです。
運転手といってもやはり警官なのですから、ふしぎな道化師が通りすぎるのを見てあとをつけたのかもしれません。
三人がそこへかけつけますと、運転手は町かどのむこうにある公衆電話のはこを指さしながら声をひそめていうのです。
「あの中へ逃げこみました。ごらんなさい、ここからでもあいつのすがたが見えます」公衆電話のそばに街灯が立っているので、ガラス張りの中がぼんやりと見えます。
そこに、道化師らしい人間の姿がうごめいているのです。
「相手に気づかれないように、四方から取り囲むんだ。」
中村係長の指図で、黒川記者、小林少年、運転手は、はなればなれになり、物の陰を伝うようにして四方から公衆電話に近づきました。
小林少年はリスのようにすばしっこいので、いちばん早く公衆電話のそばに駆け寄り、ガラスの窓からそっと中をのぞいてみました。
やっぱりそうでした、この中にいるのはさっきの赤い道化師です。
だんだら染めのとんがり帽子をかぶったまま、少し腰をかがめるようにしてこちらを向いています。
あの真っ白な顔をガラスにくっつけるようにして、じっとこちらをにらんでいるのです。
たしかにろう仮面です。
二つの目は黒い穴です。
眉も口も少しも動きません。
生きた人間の顔ではないのです。
ほかの三人も、そのときにはもう公衆電話を三方から取り囲んでいました。
入り口のとびらの前に立ったのは中村係長です。
赤い道化師は完全に袋のネズミとなりました。
もうどんなことがあっても逃げ出す見込みはないのです。
中村係長はドアの取っ手に手をかけて開こうとしましたが、どうしたわけかびくとも動かないのです。
公衆電話のドアにかぎがかかるわけはありません。
道化師が切羽詰まってドアが開かないような細工をしたのかもしれません。
「おいっ、ここを開けろ、きみはもう逃げられっこないんだ。
開けなければたたき破るばかりだぞ。」
係長がガラスの中へ聞こえるように大きな声でどなりつけました。
すると道化師の顔がフラフラッとよろめくようにこちらへ向き変わり、二つの黒い穴のような目がガラス越しにじっと係長を見つめました。
「ウフフフ……、おれは逃げられるよ。
逃げてみせるよ。
たたき破ってごらん。」
かすかな声がガラスの中から聞こえてきました。
道化師の口はろう仮面だから少しも動きません。
声だけがもれてくるのです。
袋のネズミから挑戦されたのではもうがまんができません。
中村係長はいきなり体当たりでドアにぶつかりました。
ガチャンとガラスの割れる音。
あまり丈夫でないドアはたちまち蝶番が壊れてしまいました。
それから係長と運転手とが壊れたドアを外へ引きだしたのですが、そのあいだにも道化師はもとの場所に立ったまま、「ウフフフ……」と不気味な笑い声を立てていました。
別に逃げだそうともしないのです。
いきなり道化師にくみついていったのは運転手の警官でした。
彼は恐ろしい勢いで飛びついていったのですが、そのとたんに「アッ!」と叫んで公衆電話の奥へ倒れ込んでしまいました。
道化師は着物ばかりで体がなかったのです。
運転手は空を切って倒れたのです。
「どうしたんだっ!」
「こ、こいつは着物ばかりです。」
運転手がやっと起き直って赤い道化服を引っ張ってみせました。
とんがり帽子の下にろう仮面、ろう仮面の下に道化服と広告板がくっついて、そのとんがり帽子は公衆電話の箱の天井から紐でつるしてあったのです。
今のいままでしゃべったり笑ったりしていたやつが一瞬間に着物ばかりになってしまったのです。
なんと不思議な早わざでしょう。
壊れたドアを引きだしているわずかのあいだに、透明怪人は帽子と面と着物だけを残して逃げ去ってしまったのです。
着物を脱いで裸になれば目に見えない透明怪人ですから、もういくら騒いでも追いつけません。
たとえすぐそばにいたとしてもとらえることはできないのです。
「アッ、あっちだっ!あっちへ逃げたっ!」
黒川記者が叫びながら暗闇の中へ走りだしていました。
あとの三人も驚いてその後につづきます。
「エヘヘヘヘ……、はいちゃ、はいちゃ……。」
二十メートルも向こうの闇の中から透明怪人の声が響いてきました。
そしてその声はひとことずつかすかになり、消えるように遠ざかっていきました。
「もうおっかけても無駄だ。黒川君、あきらめよう。」
中村係長はそう言って、もとの公衆電話の前にもどりました。
道化服などを証拠品として持ち帰するためです。
係長はつるしてある紐を切ってとんがり帽子と仮面と道化服を丸めて小脇にかかえましたが、そのときふと気がつくと公衆電話の床に一枚の紙きれが落ちています。ただの紙きれではない。
何か字が書いてあるようです。
係長は、いそいで、それをひろいあげ、街灯にかざして、読んでみました。
明智夫人に気をつけるがいい。
透明人間第六号は、あのうつくしい文代さんのばんだ。
係長のただならぬようすを、目ばやくみつけた小林少年は、そのそばによって、紙きれをのぞきました。
そして、そのおそろしい文句を読みとると、しんぱいのあまり、いきなり係長のうでにすがりつきました。
「早く、はやく、おくさんがあぶない。
はやく事務所へ……。

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