初級翻訳・妖怪博士 第32話

妖怪博士

」
 小泉さんは、明智さんがさしだした桐(きり)の箱をそのまま受け取ると、鋼鉄箱の棚にしまい、扉を閉めて、暗号のダイヤルをクルクルと回しました。
ふたりは土蔵から出てしっかりと戸締まりをすると、またもとの座敷にもどり、明智さんは女中さんが持ってきたちりめんの風呂敷に、ニセものの桐の箱をたいせつそうに包みました。
そうして出発の準備がすっかりととのったのは、もう夜の十時ごろのことでした。
それから、ご主人のじまんである古いブドウ酒のコルクが抜かれ、かんたんな西洋風のおつまみが運ばれてきました。グラスを手にしながらあれこれと話しているうちに、やがて出発の時間がやってきました。
「おや、もう十一時半ですねそろそろ出かけなければなりません。
約束の時間におくれては一大事ですからね。
それでは行ってまいります。
かならず信雄くんを連れて帰りますから、どうかご安心ください。」
小泉さんになりすました明智さんは、そうあいさつをして立ちあがりました。
小泉さんは、くれぐれも失敗のないようにと念を押しつつ、わざわざ玄関の門の外まで、この名探偵の心強いかどでを見送るのでした。

二十面相の魔術

 明智さんを見送って座敷へとどった小泉さんは、もう心配で気が気でありません。
「うまくとりもどしてきてくれるだろうか……もしや、掛け軸がニセものだと見破られて、あの子が恐ろしいめにあうようなことはないだろうか」と、立ったり座ったりしながら、時計の針ばかりをながめて過ごすのでした。
信雄くんのおかあさまである小泉夫人とて、気持ちは同じです。
小泉さんのそばにぽつんと座り、おたがいの青ざめた顔や、おびえた目を見かわしながら、ものを言う元気もなく、ただ時間がすぎるのを待つばかりです。
十分、二十分、三十分……ああ、なんと待ちどうしい、長くて長い時間だったことでしょう。
おかあさまなどは、あまりに胸がドキドキするものですから、このまま重い病気にかかって倒れてしまうのではないかと思ったほどでした。
しかし、止まっているのではないかと思うほどノロノロしていた時計の針も、いつの間にか進んでいき、やがて夜中の一時になろうかというときでした。
待ちに待った玄関の格子戸のベルが「チリリン」と鳴り、女中さんたちがバタバタと騒ぎだしたかと思うと、だれかが廊下をものすごい勢いで走ってくる足音が聞こえました。
「まあ、信雄さんじゃありませんか!」
おかあさまは、いきなり縁側の障子をあけ放つと、ころぶようにそのほうへと走りよりました。
「おかあさん!」
うわずった少年のさけび声がして、おかあさまともつれあうようにしながら座敷へとびこんできたのは、まぎれもなく信雄くんでした。
「おお、信雄か!」
小泉さんも思わず立ちあがりました。
「よくぞ無事に帰ってきたねえ! どんなに心配したかしれないよ。
で、明智さんは……?」
「えっ、明智さんですって?」
信雄くんは、キョトンとわけのわからない顔で聞きかえしました。
「おや、それじゃあ、おまえは明智さんに会わなかったのかい?
明智さんはね、おとうさんとそっくりの姿に変装して、二十面相のところへ、おまえを取りもどしにいってくださったんだよ。
おまえ、それに気づかなかったのかい?」
 信雄くんは、夕方からの疲れですっかりぐったりしながら部屋の真ん中に座りこんだまま、おとうさまを見あげて、ますますふしぎそうな顔をしました。
「ぼく、そんな人には会わなかったよ。変だなあ……」
「それじゃあ、おまえは一体どうやって、あそこから逃げだしてくることができたんだい?
もちろんおまえは、今まで二十面相のところに人質にとられていたんだろう?」
「うん、そうなんだよ、おとうさん!
ぼくが書いた手紙をごらんになったでしょう?
あれは、二十面相におどされて、むりに書かされたものなんだ。
でもね、手紙に書いてあることは、一つもうそじゃないんだよ。
ぼくは思い出すだけでもゾッとするような、とびきり恐ろしいめにあわされたんだから!」
 そう言って信雄くんは、夕方からのできごとを、ときどき言葉を詰まらせながら、かいつまんで物語りはじめるのでした。
おとうさまもおかあさまも、信雄くんの話が進むにつれて、まるで、あの恐ろしい動く天井が、いま、目の前でわが子の頭上に落ちてでもくるかのように、ハラハラしながら手に汗をにぎって聞き入るのです。
「そしてね、ぼくにあの手紙を書かせると、二十面相はどこかへ出かけてしまって、いくら待ってもあのへんな部屋から出してくれないんだ。
天井はもう落ちてこなくなったけれど、ぼくはこのままあの部屋で飢え死にしてしまうんじゃないかって、どんなに恐ろしかったかしれないよ。
すっごく長い長い時間だったから、ぼくはもう一か月もたってしまったような気がしたけれど、外に出てみたらまだ同じ日の夜だったんだね。
今から三十分ほどまえのことだよ、とつぜんあの鉄の部屋のドアの外で『カチカチッ』て音がしたんだ。
二十面相がドアのカギをまわして、あけてくれたんだよ。
そしてね、『さあ、もういいから帰れ』って言ったんだ……」「それでね、ぼくはいきなりドアをあけて、外へとびだしたんだけれど、もうそのへんにはだれもいないんだ。
二十面相は、どこかへ姿をかくしてしまったんだよ。
ぼくはこわくってしょうがないから、そのままいっしょうけんめい玄関のほうへかけだしちゃった。
するとね、ぼくのうしろから、おっかけるようにあいつのしわがれ声がひびいてきたんだ。
ぜったいわすれられやしない。
おうちへ帰ったら、おとうさんにこう言うんだって、あのね、おとうさんにね、すぐ明智探偵のところへ電話をかけなさいって、そう言ったんだ。」
「フーン。
明智さんのところへ電話をかけろって? それはいったいどういうわけだろうね。
あいつがでたらめを言ったんじゃあるまいね。」
「そうじゃありません。
同じことを二度も三度も、ぼくが玄関を出るまで、うしろからどなりつづけていたんだもの。
これはたいせつなことだから、わすれるんじゃないってさ。」
「そうか。
それじゃあ、ともかく電話をかけてみよう。
明智さんのことも心配だからね。
たぶんまだ帰っていないだろうが、今ごろまで何も報告してこないのはおかしいよ。」
 小泉さんはおかあさまと信雄くんを座敷に残したまま、急いで書斎に行って、卓上電話で明智さんの事務所を呼びだしました。
すると意外にも、明智探偵は事務所にいるという返事で、まもなく電話口に明智さんの声が聞こえてきたではありませんか。
「信雄は今帰りました。
どうもお骨折りありがとう。
わたしは、あなたがこちらへお立ちよりくださることとばかり思っていましたが……。」
「えっ、なんですって? おっしゃることがよくわかりませんが、なにかのおまちがいじゃありませんか。」
 明智さんはみょうな返事をしました。
「いいえ、あなたのおかげで子どもがぶじに帰ったと申しあげているのですよ。」
「それがわからないのです。
わたしはある用件で外出して今帰ったところですが、あなたの子どもさんのことなど、少しもぞんじませんよ。

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