初級翻訳・遠野物語 第6話

柳田 国男

さて、死んだヘビをどうやって捨てたらいいか困り、お屋敷の外に大きな穴を掘って埋め、「ヘビ塚」を作りました。そのヘビの量は、運ぶカゴで何杯分もあったということです。

二一 さきほどの孫左衛門は、村には珍しい大変な物知り(学者)で、いつも京都から難しい中国や日本の本を取り寄せては、夢中になって読んでいました。
ちょっと変わったところのある人だったのです。
「キツネと仲良しになって、家をお金持ちにする方法を見つけよう!」と思い立ち、まずは庭の中に小さなお稲荷さんの社を建てました。そして自分自身で京都まで上って、一番位の高い「正一位」の神様の位をもらって帰ってきたのです。それからは、毎日一枚のアゲを一日も欠かさず、自分の手でお社の前に供えてお祈りをしました。すると、あとにはキツネがすっかり人間になれてしまい、近づいても逃げなくなりました。
なんと、手を伸ばしてキツネの首を上からおささえしたりしたということです。
村にあったお寺(薬師堂)のお坊さんが、「うちの仏様はどんなお供えものももらえないのに、孫左衛門の神様のご利益のほうがすごいなぁ」と、何度も笑い話にしていたということです。

二二 佐々木さんのお家のひいおばあさんが年をとって亡くなったとき、ひつぎの中に納めて親せきの人たちが集まり、その夜はみんなでお座敷に寝ていました。
亡くなった人の娘で、心を病んでしまって離婚させられた女性も、その中にいました。
お通夜の間は、部屋の火を消してはいけないという言い伝えがあったので、おばあさんとお母さんの二人のみが、大きな囲炉裏の両側に座っていました。お母さんはそのそばに炭を入れるカゴを置き、ときどき炭をくべていました。
すると、ふと裏口の方から足音を立てて歩いてくる人影が見えました。それは、亡くなったばかりのおばあちゃんでした。
ふだんは腰が曲がっていて、着物のすそを引きずって歩く人だったので、着物のすそを三角形につまんで前の方に縫いつけてあったのですが、まさにその通りの姿で、着物のしま模様まで見覚えがあるものでした。
「あなや!」(大変だ!)と思う間もなく、二人の女の人が座っている囲炉裏のわきを通り過ぎようとして、着物のすそが炭を入れるカゴに当たったので、丸いカゴだったため、くるくると回りました。
お母さんは肝のすわった人だったので、振り返ってあとを見送りました。親せきの人たちが寝ているお座敷の方へ近づいていくなと思ったちょうどそのとき、あの病気の娘さんのけたたましい声で、「おばあさんが来た!」と叫びました。
まわりの人たちはその声で眠りを覚まし、ただただびっくりするばかりだったということです。

○これはまるで、マリエルの戯曲『侵入者』の場面を思い出させます。

二三 同じおばあさんの「二七日(ふたなのか)」のお参りの前夜、仲の良かった人たちが集まって、夜が更けるまでお経を唱え、そろそろ帰ろうとしたときのことです。
玄関のドアのところにある石に腰をかけて、あっちを向いているおばあさんがいました。
その後ろ姿は、まさしく亡くなったその人のとおりでした。
これはたくさんの人が実際に見たので、誰も疑う人はいませんでした。
いったい、どんな強い思い残し(執着)があったのでしょうか、最後までその理由は誰にもわかりませんでした。

二四 村々にある古い家を「大同(だいどう)」と呼ぶのは、「大同元年」という古い時代に、甲斐の国(今の山梨県)から引っ越してきた家だから、そう呼ぶのだということです。
この大同という時代は、坂上田村麻呂という将軍が悪い人たちを征伐していた時代です。
甲斐の国は、南部家(なんぶけ)の故郷でもあります。
この二つの古い伝説が混ざり合ってできたお話なのではないでしょうか?
○この「大同」という名前は、「大洞(おおほら)」のまちがいかもしれません。「ほら」という言葉は、東北地方では「家系」や「一族」という意味で使われます。『常陸国志(ひたちのくにし)』という本にも例があり、「ホラマエ」という言葉があとの時代に出てきます。

二五 大同の先祖たちが、はじめてこの地方にやってきたのは、ちょうど大晦日(おおみそか)の夜でした。
新年を迎えるための門松を、片方はまだ地面に植えようとしている途中で、あっという間に元日になってしまったというので、今でもこの家々では縁起の良いならわしとして、「片方の門松は地面に伏せたままにして、しめなわを横に引っ張る」という形にしているとのことです。

二六 柏崎の「田圃の家(たんぼのいえ)」と呼ばれている阿倍(あべ)というお家は、とても有名で古い家柄です。
この家の昔の当主に、ものや木を彫るのがとても上手な人がいて、遠野の町じゅうにある神様や仏様の像には、この人が作ったものがたくさんあります。

二七 早池峯山(はやちねさん)から流れ出て、北東の方向にある宮古(みやこ)の海へと流れ込む川を、「閉伊川(へいがわ)」といいます。
その川のまわりを「下閉伊郡(しもへいぐん)」と呼びます。
遠野の町の中にある、今は「池の端」と呼ばれているお家の昔の主人が、宮古へ行った帰りの道すがら、この川の「原台の淵(はらだいのふち)」というあたりを通りかかったときのことです。
若い女の人があらわれて、「一通の手紙を届けてほしい」と頼まれました。
遠野の町の後ろにある物見山(ものみやま)の真ん中あたりにある沼に行って、そこで手をパンパンとたたけば、手紙の宛名の人が出てくるはずだというのです。
この人は「わかりました」と引き受けたものの、道中ずっとそのことが気になって、どうしようかと迷っていました。すると、一人の「六部(ろくぶ/諸国をまわるお坊さん・旅の僧)」に行き逢いました。
お坊さんは、「この手紙をそのまま持って行ったら、お前の身に大変な災いがふりかかるだろう。中身を書き換えて持って行きなさい」と言って、別の手紙をくれました。
それを手紙の代わりに持って沼に行き、言われたとおりに手をパンパンとたたいたところ、やっぱり若い女の人が出てきて手紙を受け取りました。「これお礼です」と言って、とても小さな石の臼(うす)をくれました。
米を一粒入れてグルグルと回すと、下のほうから黄金(お金)が出てくるのです。
この宝物のおかげで、その家はだんだんとお金持ちになっていきました。
しかし、奥さんがとても欲張りだったため、あるとき一度にたくさんの米をドサッとつかみ入れてしまいました。すると、石の臼はものすごい勢いで勝手にグルグルと回り続け、ついには、毎朝ご主人がこの石臼のために供えていた水がたまっていた、小さなくぼみの中へスーッと滑り込むように入ってしまい、それきり見えなくなってしまいました。その水たまりは、のちに小さな池になり、今でもそのお家のすぐそばにあります。
お家の名前を「池の端(いけのはた)」と呼ぶのも、これが理由だということです。
○このお話によく似た物語は、なんと西洋にもあるそうです。偶然というのはおもしろいものですね。

二八 初めて早池峯山(はやちねさん)に登山道を切りひらいたのは、附馬牛村(つズムウシむら)の「何某(なにがし)」という猟師でした。

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