(『諸国里人談』その他。兵庫県川辺郡稲野村昆陽)
またある説では、行基は三十七歳の時に故郷の和泉国(いずみのくに)へ帰って来た際、村の若者たちがこのお坊さんを試してやろうと思い、鮒のなます(生肉の酢漬け料理)を作って置いて、無理にこれを行基にすすめました。
行基はそれを残さず食べてしまい、あとで池の岸に行ってそれを吐き出すと、なますの肉はみんな生き返って水の上をスイスイと泳ぎ回ったそうです。
その魚が今でも住んでいます。家原寺(えばらでら)の「放生池(ほうじょういけ)」というのがその池で、だから放生池の鮒はみんな片目なのだと言われました。
しかし、一度なますになってから生き返った魚だとしたら、どうしてそれが片目になるのかについては、本当のところはまだ誰にも説明することができません。
(『和泉名所図会』等。大阪府泉北郡八田荘村家原寺)
これとまったく同じお話は、播州加古川(ばんしゅうかこがわ)の教信寺(きょうしんじ)の池にもありました。
加古の教信という人は、とても信心深い念仏者でしたが、やはり無理やりすすめられたので仕方なしに魚の肉を食べ、あとで吐き出したものが生き返り、長くこの池の片目の魚になったと言われています。
お寺ではその魚を「上人魚(しょうにんぎょ)」と言っていたそうですが、それは「精進魚(しょうじんぎょ)」の言い間違いなのだろうと私は思います。
そして、この池を教信が掘った池だとする点は、行基の昆陽池のお話よりも、一層お大師様の水のお話に近いものがあります。
(『播磨鑑』。兵庫県加古郡加古川町)
しかし、魚が片目になった理由には、ほかにもいろいろなお話があります。
例えば、下野(しもつけ=栃木県)の上三川(かみのしかわ)の城跡の堀にいる魚は、一匹残らず目が一つですが、これは慶長2年(1597年)の5月にこの城が攻め落とされた時、城主の今泉但馬守(いまいずみたじまのかみ)の美しいお姫様が、短剣で自分の目を突いて外堀に身を投げて亡くなったからです。
その「因縁(いんねん)」によって、今でもその水にいる魚が片目なのだと言われているのです。
この「因縁」という言葉も、昔の人はよく口にしていましたが、具体的にどういうことを意味しているのかは、現代の私たちにはまだはっきりと分かりません。
(『郷土光華号』)栃木県河内郡上三川町)
それでは、さらに多くの因縁の例を挙げて見ていきましょう。福島の市の近くにある矢野目村の「片目清水」という池では、鎌倉権五郎景政(かまくらごんごろうかげまさ)が戦場で目を怪我し、この池に来てその傷を洗いました。
その時、血が流れ出て清水に混ざったため、池に住む小魚はどれもこれも左の目が潰れているのだそうです。
片目清水という名前は、そこから生まれたといいます。
(『信達一統志』。福島県信夫郡余目村南矢野目)
鎌倉権五郎は、八幡太郎義家(はちまんたろうよしいえ)の家来です。
十六歳の時に奥州の戦に出向き、敵の放った矢に片方の目を射抜かれながらも、その矢を抜く前に自分から矢を射返し、見事にその敵を討ち取ったという、非常に勇猛な武士でありました。しかし、その目の傷を洗ったという池があまりにも数多くあり、そのどこの池の魚も片目だと言われているのは、何とも不思議なことです。
その一つとして、羽後(うご)の金沢という町のある流れでは、権五郎の魂が死んでから片目の魚になったのだと言い伝えられています。
ここは昔の後三年の役における「金沢の柵(かなざわのさく)」があった場所だと言われていますから、そんな話もあり得るかもしれないと思う人もあったかもしれませんが、鎌倉権五郎景政は長生きをした人物であり、決してこんな所へ魂を残していったはずはないのでありました。
(『黒甜瑣語』。秋田県仙北郡金沢町)
次に山形県では、最上の山寺(やまでら)のふもとに一つの「景政堂(かげまさどう)」があって、そこが鳥海の柵(とりの海のさく)の跡だと言われていました。
そこにも権五郎が目の傷を洗ったという池があり、同じように片目の魚が住んでいました。
どうしてこのお堂ができたのかは分かっていませんが、近くの村では田んぼに虫がついた時に、このお堂から鉦(かね)や太鼓を鳴らして虫追い(害虫を追い払う行事)をすると、たちまち害虫がいなくなると言われていました。
(『行脚随筆』。山形県東村山郡山寺村)
また、庄内(しょうない)の平田(ひらた)の矢流川(やるかわ)という集落には、古い八幡の神社があって、その前の川でも権五郎がやって来て目を洗ったと言われています。
そして、その川にいる「かじか」という魚は、その出来事のためにみんな片目なのだという伝説もありました。
(『庄内可成談』等。山形県飽海郡東平田村北沢)
このように、福島県の片目清水へやって来る途中にも、まだあちこちに目を洗ったという川や池があったのですが、驚くべきことに権五郎景政は、はるか信州の南の方の村にまでやって来て、やはりそこで目を洗ったというお話が伝えられているのです。
信州の飯田から少し離れた上郷村(かみさとむら)の雲彩寺(うんさいじ)の庭に、杉の大木の下から湧き出ている清水がまさにそれで、そのためにそこにいるイモリは左の目が潰れていると言います。
その清水の名前は「うらみの池」と言いますが、どういう恨みがあったのかは分かっていませんが、権五郎はしばらくこのお寺にいたことがあるというのです。
(『伝説の下伊那』。長野県下伊那郡上郷村)
これには何か勘違いや思い違いがあったものと思われますが、また次のようなお話もあります。
作州(さくしゅう)の美野(みの)という村の「白壁の池」は、どんなに暑い日照りが続いても決して干からびたことのない、ものすごい古池で、そこには片目のウナギがいると言われていました。
昔、一人の馬方が馬に茶臼(ちゃうす=粉を挽く道具)を積んでこの池の土手を通っていたところ、あやまって水に落ちて死んでしまいました。
その馬方が片目(すがめ)の男だったゆえに、ウナギに生まれ変わってからもやはり片目なのだというお話です。
今でも雨の降る日などにじっと耳を澄ませていると、池の底から茶臼を挽く音が聞こえてくるなどと言われていました。
(『東作誌』。岡山県勝田郡吉野村美野)
越後には、青柳村(あおやぎむら)の「青柳池(あおやぎいけ)」といって、伝説の世界ではかなり有名な池があります。
この池の水の神様は大蛇(だいじゃ)で、時折美しい女性の姿に化けて、市場へ買い物に出かけたり、町のお寺の説教を聞きに来たりしたと言われています。これは、おおかた街道のすぐ脇にこの池があったため、そこを行き来する遠くの人々までがその噂を耳にし、語り継いだためにこうしたお話が生まれたのだろうと思います。
昔、安塚(やすづか)のお城のお殿様で「杢太(もくた)」という人が、市場へ遊びに出かけた際にこの美しい池の主を見初めました。
そして、その主の女性に連れられてとうとう青柳の池に入り込み、二度と戻らなかったということです。この杢太殿もまた片目であったところから、今に至るまでこの池の魚たちは片方の目に曇りがあると伝えられているのです。
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