初級翻訳・鉄塔の怪人 第4話

江戸川 乱歩

その証拠に、いつかの晩のカブトムシは、数寄屋橋で消えたままどうしても見つからなかったじゃないか。鉄塔王国にはこんなおそろしい武器があるんだよ。その武器をもって、子どもたちをさらっていくんだ。頭のいい、かわいらしい、じょうぶな子どもばかりをさらっていくんだ。警察の力でも防ぐことはできない。相手は魔法使いなのだからね。さあ、子どもがかわいければ一千万円だ。どちらにするかは、あなたの心ひとつに任せるがいい」
聞けば聞くほどでたらめに思えて、太一郎さんはどうしてもこの男の言葉を信じる気になれません。
おばけカブトムシの事件で世間が騒いでいるのをいいことに、こんな作り話をでっちあげたとしか思えないのです。
「迷っているね。無理はない」「それじゃあ一日だけ待つことにしよう。明日の夕方、おれの方から電話をかける。五時から六時までのあいだ、かならずうちにいてくれ。そして、そのときに、金か子どもか、はっきり決めてくれ。もしそのとき、あんたがうちにいなければ、賢二ぼうやをちょうだいする。これははっきり断っておくよ」

村瀬と名乗る男は、それだけ言うと椅子から立ち上がり、庭に向かった大きな窓の方へ、後ろ向きに歩いていきました。

「まだ、ベルを押してはいけない。おれの姿が見えなくなるまで、じっと腰掛けているんだ。でないと、このピストルが火を吹くぜ」

そこの窓には、厚いビロードのカーテンが床まで垂れていました。村瀬はそのカーテンの合わせ目をめくって、向こう側に姿を隠しました。しかし、そのまま窓から外へ逃げようともせず、カーテンの隙間からピストルの先を出して、じっとこちらを狙っています。カーテンの下からは、彼の靴が見えています。そうして立ったまま、しんぼう強く、身動きもせずにこちらの様子をうかがっているのです。

その不思議な睨み合いが、実に長いあいだ続きました。太一郎さんは安楽椅子にかけたまま、村瀬はカーテンの影に身を隠したまま、ふたりともまるで人形のように動かないで、五分間もじっとしていたのです。

しかし、太一郎さんはもう我慢ができなくなりました。そっと手を伸ばしてテーブルの上のベルを強く押すと、いきなりドアの方へ駆け出しました。いまにもカーテンのピストルが火を吹くのではないかとビクビクしましたが、そんな様子も見えません。ドアを開けると、向こうから駆け寄ってくる書生に出会いました。

「あいつはピストルを持って、カーテンの影に隠れている。フランス窓のカーテンだ。誰か庭へ回れ。そして、挟み撃ちにするんだ!」

書生に命じておいて、太一郎さんはそっとドアの前まで戻り、その隙間からカーテンの方を見ました。相手はやっぱり、もとのままの姿でした。カーテンの隙間からはピストルが、カーテンの下からは二つの靴が見えています。さっきから、少しも動かないのです。

なんだか変です。しかし太一郎さんは、まだ部屋の中へ飛び込んでいく決心がつきません。そこに立ちすくんでいるばかりです。しばらくして、カーテンのあたりでガチャンという音がしました。ギョッとして見つめていると、いきなりカーテンがさっと左右に開かれ、そこから書生の姿が現れました。

村瀬ではなくて、書生です。そして村瀬は、どこへ行ったのか、影も形もありませんでした。あっけにとられていると、書生がニコニコしてカーテンの端を持ち上げて見せました。するとそのカーテンの端に、細い糸でさっきのピストルがぶら下がっているではありませんか。それから床に目をやると、そこには二つの靴が脱ぎ捨ててありました。

カーテンが閉まっているあいだは、いかにもそこに人が立っているように見えたのです。村瀬という妙な男は、靴を脱ぎ捨て、ピストルをカーテンにぶら下げておいて、とっくに窓から逃げ去っていたのです。ただ逃げ出したのでは書生たちに追いかけられるでしょうし、警察に電話をかけられ、非常線を張られる心配もあります。それを防ぐために、うまい手品を使ったのでした。

**しのびよる怪物**

高橋太一郎さんはその晩のうちに事の次第を警察に届けましたが、あまりに突飛な事件なので、警察でも「狂人の仕業」と考えたようです。一応、高橋さんの屋敷の周りを警戒することにはしましたが、事件を深く調べようともしませんでした。

高橋さんも、「鉄塔王国」などという馬鹿馬鹿しい話は信用できませんので、翌日村瀬から電話がかかってきても、「留守だ」と言って取り合わないことに決めました。約束通り村瀬からは二度も三度も電話がありましたが、そのたびに書生が出て、「主人は外出していて、行き先がわからない」と断ったのです。

ところが、事件から三日目の夜になると、村瀬という男の言ったことが決してでたらめではなかったことがわかってきました。次々と恐ろしいことが起こったのです。

高橋さんの次男で、小学校四年生の賢二少年は、その晩、自分の勉強部屋で机に向かって本を読んでいました。まだ七時ごろですが、寂しい屋敷町ですから、あたりはシーンとして静まり返っています。おうちが広いので、ほかの人たちの声も聞こえません。この勉強部屋は、壮一にいさんとふたりで使っているのですが、そのにいさんもどこかへ出かけていて、賢二君はひとりぼっちでした。
一生懸命に本を読んでいると、机の上のどこかで、カリカリと物をひっかくような、かすかな音がしました。
変だなと思ってそのあたりを見回しましたが、別に変わった様子はありません。
しばらくすると、またカリカリと、今度はごく近くから音が聞こえてきました。
賢二君はなんだか気味が悪くなって、じっと机の上を見つめていると、電気スタンドの台の向こう側から、黒い小さなものが這い出してきました。
カブトムシです。
よく見ると、そのカブトムシには頭のてっぺんからニューッと一本のツノが生えていました。
そして背中には、妙な白い模様があります。
賢二君はその模様を見て、思わずゾッとしました。
それは、骸骨の顔にそっくりだったからです。
賢二君は怖くなって椅子から立ち上がりました。
そして少し離れたところから机の上を見ていますと、這い出してきたカブトムシは一匹だけではないことがわかりました。
二匹、三匹、四匹、五匹……あとからあとから這い出してきて、今まで賢二君が読んでいた本の上をゾロゾロと歩いているのです。
しかも、そのたくさんのカブトムシの背中には、みんな骸骨の顔のような模様があるのです。
賢二君はもうたまらなくなって、勉強部屋から逃げ出しました。
そして茶の間の方へ走っていくと、向こうから壮一にいさんがやってきました。
「なんだい、真っ青な顔をして。どうかしたのかい?」
「カブトムシ……骸骨の模様のあるカブトムシが、ぼくの机の上に……」
賢二君はにいさんにすがりつくようにして、べそをかきながら言うのでした。
「ふーん、骸骨の模様だって? よし、にいさんが見てやる。一緒においで」
中学二年生の壮一君は、さすがにいさんらしく、しっかりしていました。
ところが、ふたりが勉強部屋に引き返して賢二君の机の上を見ますと、不思議なことに、さっきまであんなにゾロゾロ這っていたたくさんのカブトムシが、どこにも見えないのです。

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