初級翻訳・銀河まつり 第1話

吉川 英治

はしがき

『人国記』という本によると、昔から信州(長野県)の人は争いごとが好きだといわれています。
これは、他の土地の人には見られないほど情熱的でたくましい、とほめる意味にもとれますが、実は「心が狭い」という意味にも聞こえます。
また、この土地は古くから優秀な人物をたくさん出しているのに、天下を統一するような大人物は一人も出ていない。そのことを皮肉った言葉として受け取っても間違いではないでしょう。
でも、これは信州に限ったことではないような気がします。山に囲まれた土地に住む人たちに共通する性質ではないでしょうか。
十数年もの間、雪が解けるたびに繰り返された「川中島の戦い」は、越後(新潟)の人と甲州(山梨)の人の喧嘩でしたが、どちらも山岳地帯を拠点にする武闘派の集団でした。
――とはいえ、もし争わなかったとしても、当時は敵同士のど真ん中に挟まれて、漁夫の利を占めるには絶好の立場だった信州は、やはり喧嘩がうらやましかったのでしょう。国中の人たちがこぞって両方の将軍の配下に入り、自分たちの国の麦畑を踏み荒らしながら戦ってしまったのです。
――いや、私は『人国記』のような堅苦しい本を書くつもりはありません。
これからお話しするのは、その信州の北、戸狩村(とがりむら)という、別名「花火村」とも呼ばれる場所で起きた、ある花火職人の恋の戦いです。花火職人らしく、恋敵の首を花火の筒から打ち上げてしまい、同時に自分も、愛した女性の命も、すべて花火に変えてしまった……そんな、千曲川(ちくまがわ)のほとりで聞いた、勢いのある初秋の夜のお話です。

一

「誰も来ないだろうな。……大丈夫だろう、お芳」
「ええ、大丈夫よ」
「今の咳払いは誰だ?」
「延徳村(えんとくむら)から繭(まゆ)を買いに来たおじいさんよ」
「もう行ってしまったのか?」
「ええ」

去年の落ち葉が堆肥のように腐っている、山の尾根でした。
自分の声が響くのが不気味に思えるほど、そこは静まり返っていました。どこからか、ボクボクと土を掘る音が聞こえてきます。ヒノキの木々が真っ直ぐに立ち並び、春の空に向かって暗い緑色の傘を重ねていました。音の正体は、その奥にある墓地からです。間違いなく、鋤(すき)で土を掘る音でした。
鋤の音が止まると、木製の鳩笛を吹くような、頼りない変な鳥が、まるで二人を脅かすように頭上で鳴きました。

「お芳」
「なあに」
「大丈夫か?」
「誰も来ないってば」

お芳は赤い帯揚げをしていました。郷士の娘で、引き締まった体つきの美人です。彼女は木立の外に立ち、延徳街道や穂波の方から戸狩へ続く白い道をじっと見張っていました。
この地方の墓地は、一人につき一つのお墓を建てる習慣があります。そのため、家の数に対してお墓の数がとても多いのです。山のふもとや畑の端、川原の崖っぷちなど、いたるところに墓石がのんびりと集まっていました。
今、お芳が立っている後ろの墓地には、まだ雪が深かった正月ごろに亡くなった、村の「お千代後家」が埋められたばかりの生々しい記憶があります。
――彼女は、そこで待ちぼうけをしている間、戸狩の若い男たちを次々と恋人にして、欲望のままに生き抜いて土に還ったお千代後家のことを、ぼんやりと考えていました。そして、可愛らしい口を開いてあくびをしました。

やがて、墓地の中で若い男が腰を伸ばしました。足音が近づいてきたので振り返ると、
「ああ、ひどい。もういいぜ」
と、男は耳の穴に入った土をほじりながら、抱えてきた壺のようなものを、お芳の足元へ大事そうに置きました。
「腰が痛いよ」
「嫌なにおいがするわね」
「気のせいだよ。死人なんてものはきれいなもんだ。生きてる奴のほうが、よっぽど汚いさ」
「慣れているのね、七(しち)さん」
「親代々の仕事だからな。おい、ちょっと顔を洗ってくる。向こうの沢で」
「手ぬぐいは?」
「貸してくれ。へへへ、口紅がついているぜ」

七之助(しちのすけ)は、戸狩村の煙火師(花火職人)でした。こんな山奥に代々住んでいても、花火職人というのはみんな遊び人風で、粋で勘がよく、金遣いも荒い。だからこそ女性に好かれました。
手ぬぐいをつかむと、七之助は沢の方へ駆け出し、カラスの水浴びのようにジャブジャブと顔や手足を洗いました。
「死人のにおいってやつは、水で洗うと妙に生き返ってくる。慣れていても、やっぱりいいもんじゃねえな」
腰に挟んでいた草履を降ろして、ベタつく足を突っ込みました。
――そして、流れのそばを離れようとしたとき、不意に、笑いをこらえていたような声が頭の上から降ってきて、彼を驚かせました。

「七之助、忘れものがあるぞ、忘れものが」
「えっ?」
トンボのように首を回して見上げると、崖の中腹にある低木の葉が揺れていました。顔色が白く、どこか嫌味っぽい侍の半身が、意地の悪い薄笑いを浮かべてこちらを見ています。
「鋤だよ、七之助。お前が今、墓場を掘った鋤じゃないか。流れの中に忘れていくと、いつまでも、お千代後家の死に脂(あぶら)が里へ流れていくぞ――」
侍は葉っぱの隙間から、沢の水を指さしました。

二

土着の花火職人だけで三十戸もあるこの戸狩村には、冬のころから、松代藩(まつしろはん)の「狼火(のろし)方」の藩士が五人ほどやってきて、秋までに仕上げる大仕事の監督をしていました。
今、七之助を皮肉った侍も、その出張組の一人でした。蜂屋慎吾という男がいました。藩の次席家老の息子ですが、少し流行の洋学にかぶれて変屈な性格になってしまったうえに、体が弱くて困るという親心から、父親がわざわざ藩の狼火方(のろしがた)の同心に頼み込み、この山奥の僻地へと懲戒の意味も込めて役付きで送り込んできたという、厄介な人物でした。
しかし慎吾にとって、この山村での生活は何の教訓にもなりませんでした。
他の同僚を顎で使い、相変わらず空威張りを続けています。当然、村の花火職人たちからも反感を持って見られていましたが、家老の息子であるため、誰もが表面上はお坊ちゃんとして扱い、我慢してやり過ごしていました。
おかげで慎吾は、いよいよいい気になっていたのです。
「こんな気楽な出役なら、三年でも五年でも続いてほしいものだ」と考えていました。
――そんな中、慎吾は他の四名と共に冬から泊まり込んでいた郷士の家の娘、お芳に恋をしていました。
今夜は、九の日でした。
月の九日、十九日、二十九日。こうして三日の晩には必ず戸狩村の者たちが、郷士である教来石兵助(きょうらいしへいすけ)の家に集まり、仕事の打ち合わせをする決まりになっていたのです。
「よう、御苦労さま」
「お疲れでございます」
「こんばんは」
「はい、こんばんは」
老人、中老、若い男たちが、夕刻になるとぞろぞろと兵助の屋敷に集まってきました。
黒くて大きな家の中に、この晩だけは百目蝋燭が二十本ほど灯ります。
お芳も別の着物を着て、美しく化粧を施していました。

三

教来石兵助の今の家は、当主で二十何代目というだけあって、恐ろしく古い建物でした。

コメント

タイトルとURLをコピーしました