初級翻訳・青い眼鏡 第3話

野村 胡堂

もう一息というところで足踏みしているのです」
「大谷千尋の正体を突き止めたのですね」
「見当は間違っていないつもりですが、あくまで私の推測で、証拠というものが一つもないのです」
「フーム……」

一人は富田刑事部長、もう一人は言うまでもなく、宇佐美六郎に変装していた名探偵・花房一郎です。ハゲ頭の精巧なカツラを取り払うと、下からは漆黒の髪が現れ、顔もなんとなく若さと鋭さ、そして清らかさに輝いて、宇佐美六郎の面影はどこにもありません。
「私が大谷千尋の変装を見破ったのと同じように、向こうでも私の変装を見破っているのです」「今晩も現に、大谷千尋に違いないと思う男と、花房一郎は大谷千尋を捕まえられるか捕まえられないかという事で、大変な議論をしてきたところです」
「ふーむ、それは面白いな」
「いや部長、あまり面白くはありません。花房一郎が警視庁に勤めてから、これほど犯人にバカにされたことはありません。とにかく大谷千尋という男は、この世にも恐ろしい凶悪犯です」
「それを何とかして逮捕しなければならない。三ヶ月の間に銀行を三つも襲撃し、人間も六人も殺めている――世間はガヤガヤと我々当局者を攻撃しているありさまだ。どんなことをしても、この数日中に大谷千尋を逮捕し、法の裁きを受けさせなければ、私は腹でも切らなければならない。あれほど大掛かりな悪事を働いて少しも証拠を残さないというのも不思議だが、現場へ『大谷千尋』と署名してくるというのも不思議だ。そんな悪党は映画の中だけにしか出ないものと思い込んでいたのは、私の浅はかさだったよ」
「部長、そう仰られると面目次第もありません。どうぞ、もう一週間、いや、せめて三日だけ猶予をください――」
「おっ、電話じゃないか、花房君」
花房一郎は受話器を取り、耳に当てました。
「はいはい、私は花房。ええそうです、あなたは? 名前は言えない、はてな。用件は何? 今晩、日本橋あたりまで来てみろ、大谷千尋が何か大仕事をするかもしれない、ふーむ、どうしてそれが分かったのです……それも言えない。そんなあやふやなことを、私は信用して出動すると思いますか? 何? ――きっとする、青い眼鏡の仕掛けを知っているなら――何? もう一度、青い眼鏡の――もしもし、それはどういう意味ですか、もしもし、もしもし、あっ、切れてしまった」
花房一郎は、ガチャリと受話器を掛けて、しばらく考え込みました。
「花房君、今のは誰の電話だ?」
「分かりません。心当たりがないわけではありませんが――いや、そんなはずはない。お聞きの通りの電話ですが、相手が若い女だということ以外には、何も分からないのです。騙されるとしても、とにかく行ってみましょう。オートバイで連絡を取らせますが、制服私服半々くらいに、警官を五十名ほどお願いします。それでは私は一人で様子を見に行ってまいります」
「大丈夫か?」
「虎の穴に入るより他に方法はありません」
キリッと立った花房一郎の顔には、死もまた辞さないという決意の色が浮かんでいます。

四

「この辺でよかろう」
日本橋のある横道に自動車を停めた花房一郎は、しばらく車の中に留まったまま、腕を組んでじっと考えを巡らせました。
往来の人もほとんど途絶え、かすかに終電車の音が遠くで唸るばかり。夜とともに起きた空っ風が、街の埃をもうもうと吹き上げて、車の外は顔を向けることもできないほどです。
「何時だろう」
わざと電灯を消した自動車の中から声をかけると、
「一時を過ぎましたろうな」
運転手は気のなさそうな声で返事をします。
「はてな」
花房一郎は思わず声を出して首を傾げました。

(先ほどの電話が騙りで、自分をおびき寄せるための手段ならば、時間と場所をはっきりと指定するはずだ。危害を加えるにしても、翻弄するにしても、場所と時間を指定せずにおびき出すという法はない。そう考えると、あれはやはり大谷千尋の悪事を嗅ぎつけた者が、自分へ密告してくれた電話だったのだろうか。青い眼鏡ということを知っている以上は、今晩あの食堂の中にいた者に違いないが、あの一座の女というのは美容師の村岡柳子と、女優の芳野絢子の二人だけだ。だが電話の声は、この二人のうちの一人ではなかったことは確かだ――)

ここまで考えると、花房一郎の頭脳も混乱するばかりで、この先どうしていいか見当もつかなくなります。

(待て待て、あの劇場のチラシの裏にある青色と赤色の文字。仕掛けを見た時、島幾太郎とその手下が少しも驚かなかったのはどういうわけだろう――。あの青い眼鏡でだけ読める仕掛けを、あいつらは知っていたというのか――それとも――国民劇場は一体今、何の芝居をやっているんだろう?)

あっ、いけない。国民劇場は改築中で、先月から休場しているはずではないか。そう考えるとあのチラシは少なくとも二、三ヶ月前のものだ――。二、三ヶ月前のチラシを料理屋の前で、しかもこの寒空に配るというのは、どういうわけだ。あっ、これはまずい。俺は裏の青色と赤色の仕掛けを解いて得意になって、もっと大事なことを忘れていたのだ。あのチラシを地下室の料理屋へ入る者全部に手渡したのは何のためだ。

(あのチラシが怪しい――)

花房一郎はここまで考えると、慌てて自分のポケットを探りました。
「あった、あった」
さすがに捨てずにおいたので、そのままチラシはポケットの中にありました。「青い眼鏡――」
このチラシの裏に書かれたメッセージを読むためには、どうしてもそれが必要です。しかし、そんなものが自動車の中や、深夜の街にあるはずもありません。そう思っていたその時、パッとひらめいたのは、日本橋のたもとに立っている電車の信号手のことでした。
花房一郎は、すぐに自動車を飛び降りると、信号手のもとへ駆け寄りました。
「すみませんが、ちょっとその信号灯を貸してください」
「それは困りますよ。もう終電が来る頃ですから」
信号手は迷惑そうに言いましたが、花房一郎は食い下がります。
「いや、決して手間は取らせない」
忙しく広げた先ほどのチラシを、信号灯の青い光に照らしてみると、青色の模様がスッと消えて、
……銀座銀座と通う奴馬鹿よ……
と、はっきりと「銀座節」が浮かび上がりました。しかし、それ以外に変わったところはありません。
「はてな」
花房一郎は、しばらくそのチラシを信号灯に押し当てて、何度も何度も眺めていました。
「あっ、もう電車が来ましたよ。どいてください」
押し除けられてよろけたそのはずみで、花房一郎の頭の中に、天から光が射すようなひらめきが走りました。
(あッ、あれだ! 青い眼鏡で見れば赤い模様と赤い文字だけが読めるが、もし、もし赤い眼鏡で見たら何が読めるだろう? 青い細かい模様に見えていたものの中に、何か別の文字が隠されていたのではないか)
そう考えると花房一郎は、信号手が持っている信号灯の赤い窓の方へ、大急ぎでチラシの裏をかざしました。
するとどうでしょう、赤い模様も銀座節も消えて、青い模様の中に、何やら別の文字が手に取るように読めるではありませんか。

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