ミスはその話でもってすっかり逆上して、トゥロットの手をぐんぐん引っ張って歩きます。
と、そのうちにミスはふと立ち止まりました。
ムキウス・スカエウォラは、暴虐な王を殺せなかったのを悔いて、自分に刑罰を加えるために、手を火の中につっこんで焼きました。
ミスはその話をしながら、片手をにゅっと前に突き出しました。
トゥロットはその勢いのすごいのを見て、これはミスもスカエウォラのように、自分で手を焼いたことがあるのではないかと思いました。
しかし、残念なことには、ミスの手には手袋がはまっているので、手の先が焼け落ちているかどうか、それが見えません。
ああ、やっとイギリスの歴史になってきました。
聖地パレスチナで、サラセン人を滅ぼしつくしたのはリチャードです。
ミスの日傘はサラセン人を切り倒し、鎧へ打ち込み、または、そのときのリチャードの王家の旗印のように空中にゆらめきました。
トゥロットはミスが鎧を着て、騎士のように馬にまたがって、野蛮人に攻めかかる勇ましい姿を考えました。
ミスには、たぶん鎧などはいらないでしょう。あんなに体が硬いのですもの。
この人にあたれば、どんな矢だってみんな折れてしまうでしょう。
これではサラセン人も気の毒です。
ミスは一生懸命に話し続けます。
「近代では、こういった崇高な功績というものは極めて少なくなりました。
つまり、イギリス人の英雄的な行為を必要とする出来事が、永年来なくて済んできたからです。
近い例としてはネルソンを上げましょう。
ネルソンはトラファルガーの海戦では、片手をもぎ取られても、なお艦隊運動の命令を下し続け、命を投げ出して指揮をしました。
それから、次にお話ししなければならないのは……」
ちょうどそのとき、小間物屋の前まで来ました。ミスは買いものがありました。
トゥロットは、すぐそばの散歩道のところまで歩いていきました。そこで待っていようと思ったからです。
ミスは店の中へ入りました。トゥロットは、そこから少し離れてしまいました。
トゥロットは、今日はいろんな英雄のお話をたくさん聞きすぎました。レオニダス、ネルソン、スカエウォラ、コクレス、リチャード王。これだけの人が頭の中で踊り回ります。
トゥロットは、両腕を振って歯をむき出し、散歩道をいったり来たりしていました。
しかしトゥロットの腕は、ミスの腕のように太くもなければ、黄色くもないので、ちっとも威勢がありません。
ミスという人は、あんなにありったけの「徳」のお話を知っているのですから、自分自身でも、よほどたくさんの徳を備えているに違いありません。
トゥロットはミスがあまり好きではありませんが、それでも、えらい人だとは十分思っています。
トゥロットは、とても三百人の人を……三百人を殺すのだったかしら……三百人はとても一人では殺せそうもありません。
自分自身の手をランプで焼くなんてこともできません。一度、ろうそくで火傷をしただけで泣いたくらいですもの。
ミスは、さっき、スカエウォラのように……何とかスカエウォラだったっけ……あぁ、ムキウス・スカエウォラだ。そのスカエウォラのように腕を突き出しました。
でも、あいにくそばにランプがありません。もしランプがあったら、ミスは手を焼いたに違いありません。あんなカサカサの手だから、惜しげもなく焼いたに決まっています。
もしミスがネルソンになったら、どんなにすばらしい働きをしたでしょう。トゥロットは、ミスが襟の高い海軍服を着て、ばかに長い片腕をぶら下げて、キーキー声で号令をかける姿を思い浮かべてみました。
ミスは、その次には、レオニダス、コクレス、スカエウォラ、それからもう一度ネルソンの姿になって現れました。
そのほかの人たちは、みんなで一つの姿になって浮かびました。
その姿というのは……
おや、どうしたんでしょう。
ミスは? あら、何をふざけているのでしょう。
ほう、飛んだり、跳ねたり、狂った娘のように、くるくる回ったりしています。
ミスがあんなことをするのは、はじめてです。
おぉ、ちらりと後ろへ目を向けました。
おや、くるりと向きを変えて日傘を振り回し、おかしな声で叫びながら、後ろへ下がり始めました。
どうしたんでしょう。トゥロットは、心配でたまらなくなりました。
三
あぁ、やっとわかりました。
パン屋の飼っている、いやな犬です。
あいつは、だれにでも、ウーウーうなって飛びかかります。どうしたわけか、イギリス人の女をひどく嫌うようです。
その犬が、今、うなり声を上げて、ミスに飛びかかっているのです。
後ろへ引き下がったかと思うと、なおひどくうなって飛びつき、後ろ足で立ち上がり、次には地面へうずくまって、気味悪く歯をむき出しました。
ははぁ、あの犬をからかったのは、きっと、ミスのふくらはぎです。ミスの靴下です。おかしな犬もいたものです。
あの犬が、骨をしゃぶっているのをよく見かけました。
ほう、だんだん激しく突っかかってきます。イギリスの女を食べてしまおうと、腹をきめたのでしょう。
ミスの頬は真っ青になりました。ただ鼻だけが、危険に陥った船の信号灯のように赤く燃え立っています。
犬はぐんぐんそばへ来て、狂ったようにミスの周りを駆け回ります。それこそ、日傘でおどかしても、やさしい言葉をかけても、聞きやしません。
大胆にも鼻先で、ミスのスカートをひっかきます。がっしりした犬の歯は、ミスのすねの骨組みへ、食いつきかけました。
ミスはふだんから、わけもなく犬が怖くてたまらない人です。
ミスは、今はもう、こめかみをガクガクさせ、全身に冷たい震えを走らせました。冷や汗がカサカサの背中へじっとりとたまりました。
もう、泣かんばかりの顔をして、助けを叫ぼうとしています。でもたった一つ、ミスがイギリス人であるという誇りから、泣き声を出すわけにもいきません。
戸口に立って、薄笑いを隠していたパン屋の店員は、どっと吹き出しました。
攻撃はいよいよ猛烈になりました。
犬の糸切り歯は、ミスのふくらはぎと思うあたりへ、ガクリとかみつきました。
ミスは自尊心を失って、ひどくあわて騒ぎました。
スカートをまくし上げて、ラクダのかけ足のように、首のところまでスネをはね上げました。
でも犬は、もっとすばしっこくミスのイギリス製の、丈夫なスカートをくわえました。
ですからミスは飛び上がることができません。まるで「おやっ」というように振り返ったその姿は、まるで飢えた野獣の牙の下でふうふうと息を切らす羊のように、じっとにらまれながら立ちすくんでいました。
パン屋の人たちは店の入り口で、お腹を抱えて大笑いしています。
すると、犬は急に尻尾を股の間に挟み、耳をぺたんと垂らして、一本の足を空へ跳ね上げながら、キャンキャンと鳴いて逃げ出しました。
トゥロットが、ふざけっこがあまりに長すぎると思ったのか、持っていたおもちゃのシャベルで、犬の背中を力いっぱい、ごつんと叩いたからでした。
敵の姿は見えなくなりました。
ミスはイギリス人らしい威厳と冷ややかさを取り戻して、トゥロットの手を取りました。
ミスの血が、再び静脈を巡り始めました。
トゥロットは言いました。
「ミスって、すごく勇敢なのね。ねえ、ミス。
コメント