初級翻訳・魔王物語 第5話

田中 貢太郎

「……ならば、正太夫の遺体はどこにあるのです?」
権八は平太郎の手をしっかりと掴んだまま、左右を見回しました。
「貴殿の背後にある。私は友を殺してしまったのだ、もう生きてはおられん」

権八は首を曲げて背後を見ました。
そこには、何も見えませんでした。
「何も見えないではないか」
平太郎は、まるで夢から覚めたような心地になりました。
彼の目には、夜が明けきった部屋の中が映っていました。
短刀を落とし、部屋の中を見回しました。
正太夫の死体も、柱の下にあった折れた刀も、どこにもありませんでした。
彼は苦笑して権八を見ました。
「すんでのところで、あぶないところであった」
権八は呆れたように目を見開いていました。

八

七月の末日となりました。
妖怪に悩まされ始めてから、ちょうど一ヶ月目の夜のことです。
平太郎は行灯(あんどん)の前に一人ぽつねんと座り、前夜のことを考えていました。
執拗な妖怪のせいで命を捨てようとした自分の愚かさを振り返り、自分自身を笑っていました。
そして、しばらくして我に返り、前方へ目を向けると、裃(かみしも)を着て両刀を差した立派な武士が、悠然と立っていました。
「おのれ、妖怪め!」
そう言うが早いか、平太郎は刀を抜いて立ち上がりました。すると武士はニヤリと笑って背後の壁の方へ下がりましたが、そのまま姿は壁の中に吸い込まれるように消えてしまったのです。
平太郎は困惑しました。
彼は刀を構えたまま、壁の方を見つめていました。
「お前がどれほど私を斬ろうとしても、決して斬ることはできない。今夜は君に話があって来たのだから、刀を収めて静かに聞け」
壁の中から声がしました。
平太郎は、これはとても自分の手には負える相手ではないと諦め、言われるままに刀を鞘に収めて座り直しました。すると壁の中からぼんやりと先ほどの武士が現れ、平太郎の前に座りました。

「今こそ我が名を名乗ろう。私は狐や狸の類ではない。日本中の高い山々を往来する、山本五郎左衛門という魔王である。この一ヶ月ほど、君の家に現れて異様な姿を見せていたのは、さる五月雨(さみだれ)の頃、君が大熊山に登った際、途中で出会った時に君の顔相を見たからだ。この七月に君の身に災いが降りかかることが出ていたので、それを防ぐために来たのであって、決して君を苦しめるために来たのではない」
そう言いかけて懐から巻物を取り出し、こう言いました。
「これは『蒼生心経術(そうせいしんきょうじゅつ)』と称する、病人を救うための呪法である。これを君に授けるから、習い覚えて病人を救うとよい」
平太郎はにじり寄って、その巻物を手に受け取りました。
「ここで一度読むといいだろう」
魔王がそう言うので、平太郎は言われた通り巻物を開き、中の文字に目を通しました。
その時、夜中の二時を告げる鐘が鳴りました。
「それでは、私はこれより奥州の金華山へ出発する。君と会うのもこれ限りだ」
そう言って魔王は立ち上がり、縁側の方へ出て行きました。
平太郎も別れが惜しく、あとを追いかけました。
庭には籠(かご)が据えられており、その傍らには天狗のような異形の者たちが五、六十人ほど、下弦の月の光の下に並んでいました。
魔王が庭に降りると、それらの異形の者たちは一斉に地面に頭を下げて礼をしました。
魔王は籠の中にゆったりと座りました。
すると空から怪しい雲が降りてきて、籠をはじめとする異形の者たちを包み込むと、ふうわりと空へ飛んで行ってしまいました。

九月になって新八郎が亡くなったため、平太郎は稲生家を相続することになり、五百石の俸禄を賜りました。
この平太郎は、江戸の霞ヶ関にあった藩の上屋敷に来たこともあったので、実際に本人と会ってその話を聞いたという人もいたということです。

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