初級翻訳・鼠 第4話

岡本 綺堂

有明行燈の火に照らされた蚊帳の中には、鼠らしい姿は見当たりません。
念のために布団を振ってみましたが、いたずら者はどこにも隠れていませんでした。
「行燈を消さずに置いてください」
言い知れない恐怖に襲われたお此は、夜が明けるまで一睡もできませんでした。七兵衛もそのお供をして、ちっとも眠ることができませんでした。

この時期の夜は短いので、わびしい雨戸の隙間が薄明るくなったかと思うと、抜き足で縁側の障子の外へ忍び寄る者がありました。
お此ははっとして耳を傾けると、外からそっと呼びかける声がしました。
「おかみさん。お目覚めですか」
それはお国の声だったので、お此は安心したように答えました。
「はい。起きていますよ。何か用かい?」
「入ってもよろしいでしょうか」
「お入り」
許しを得て、お国はまたそっと障子を開けました。彼女は寝巻きのままで、蚊帳の外へ這い寄ってきました。
「おかみさん。ちょいとおいでいただけませんか」
「どこへ行くの?」
「お元さんのお部屋へ……」
お此はまた心臓が跳ね上がりましたが、一種の好奇心も混ざって、同じく寝巻きのままで蚊帳から抜け出しました。
お元の部屋は土蔵前の四畳半で、北向きに一間の肘掛け窓が付いていました。
その窓の戸から漏れる朝の光を頼りに、お此が廊下の障子を細目に開けて覗くと、部屋いっぱいに吊られた蚊帳の中に、お元は東枕で眠っていました。
その枕元に、一匹の灰色の小鼠が、まるでその夢を守るようにうずくまっていたのです。
「ご覧になりましたか」とお国が小声で言いました。
お此はもう返事ができませんでした。彼女は半分夢中でお国の手をつかみ、震える足を踏みしめながら自分の八畳間へ戻ってくると、七兵衛も待ちかねたように声をかけました。
「おい、どうした」
鼠の話を聞かされて、七兵衛も起き上がりました。彼も抜き足でお元の寝床を覗きに行きましたが、その枕元に鼠らしい姿はありませんでした。
お国も鼠を見たと言い、お此も確かに見たと言うのですが、自分の目で確かめられない以上、七兵衛はやはり半信半疑です。むやみに騒いではならないと女たちを戒めて、お国を自分の部屋へ下がらせました。

夫婦はいつもの時刻に寝床を出て、何気ない顔をして朝食の膳に向かいましたが、お此の顔色は青ざめていました。
お元も今朝は気分が悪いと言って、ろくに朝ごはんを食べませんでした。その顔色も母と同じように青ざめているのが、七兵衛の注意を引きました。
その日も雨が降り続き、薄暗い一日でした。
午後過ぎ、お元は茶の間へしょんぼりと入ってきて、両親の前に両手をつきました。
「まことに申し訳がございません。どうぞお許しをお願いします」
出し抜けに謝られて、夫婦は狐につままれたような気分でした。それでも七兵衛は静かに訊ねました。
「申し訳がない……。お前は何か悪いことでもしたのか」
「恐れ入りました」
「恐れ入ったとは、どういうわけだ」
「わたくしは……。お家の娘ではございません」と、お元は声を沈めて言いました。
夫婦は顔を見合わせました。とりわけ七兵衛は、自分の耳を疑うほど驚かされました。
「家の娘ではない……」「どうしてそんなことを言うのだ。」

「わたくしは江戸の本所で生まれまして、小さい時から両親と一緒に近所の祭や縁日をまわっておりました。お糸というのが、やはり私の本名でございます。わたくし共の一座には、蛇つかいもおりました。鶏娘(にわとりむすめ)という、かわいそうな見世物もおりました。

わたくしは鼠を使うのでございました。芝居に出てくる金閣寺の雪姫、あの芝居の真似事をするのです。わたくしがお姫様の姿で桜の木にくくり付けられて、足の爪先で鼠をかきますと、たくさんの鼠がぞろぞろと出てきて、わたくしの縄を食い切るという芸でございます。芝居ならばそれだけですが、見世物が本業ですから、その鼠がわたくしの頭へのぼったり、襟首へはいったり、ふところへ飛び込んだりして、見物人たちをはらはらさせるのが自慢の芸当だったのでございます。」

お元と鼠との不思議な関係は、まずこれで説明がつきました。彼女はさらに語り続けます。

「そうしているうちに、江戸ばかりでは面白くないというので、両親はわたくし共を連れて旅に出ました。まず最初は八王子から甲府へ出て、諏訪から松本、善光寺、上田などをまわり、それから北国へ入って、越後路から金沢、富山などをまわって岐阜へまいりました。ひと口に言えばそうですが、そのあいだに足掛け三年の月日が流れ、旅先ではいろいろな苦労をいたしました。

そうして去年の秋の初めに岐阜まで参りますと、そこには恐ろしい疫病が流行っていまして、一座のうち半分ほどがばたばたと亡くなってしまいました。わたくしの両親も、同じ日に死にました。もうどうすることもできず、残った一座の者は散りぢりばらばらになりましたが、そのなかに『お角』という、心根の悪い三味線ひきの女がおりましてね。わたくしをだまして、どこかへ売ろうと企んでいるらしいのです。うかうかしていると大変なことになると思いまして、着の身着のままでそっと逃げ出しました。

東海道を下ると追っ掛けられるかもしれないので、中仙道を通って木曾路へさしかかった頃には、わずかな貯えもなくなってしまい、もうこの上は乞食でもするよりほかはない、と思っておりました。すると運よく伊平さんに拾われて、まあ何ということなしに半年余りを暮らしていたのでございます。」

お元は怪しい女ではなく、ただ不幸な身の上の女だったのです。その悲しいお話を聞かされて、気の弱いお此は涙ぐんできました。

四

ここからがお元の本当の告白(懺悔)でした。

「まったく申し訳のないことをいたしました。今年の三月二十七日に、伊平さんの商売のお手伝いをして三軒屋の立場茶屋へ熊の皮や熊の胆を売りに行きますと、あなた方にお目にかかりました。その時に旦那さまが、何かわけありそうな顔で、私の顔をじっと眺めておいででした。なんだかおかしいな、と思っておりますと、やがてわたくしを傍へ呼んで、『おまえの左の二の腕に、青い痣はないか』とお訊きになりました。

さてはこの人は、娘か妹か、なにかの女を探しているに違いない――そう思った途端、ふっと悪い心が起きました。こんな木曾の山の中に、いつまで暮らしていても仕様がない。ここで何とかごまかして……。そう思ったのが、わたくしの最大の誤りでございました。

奥へ連れて行かれる時に、店の柱へ二の腕をそっと強く打ちつけて、急ごしらえの痣をこしらえまして……。わたくしは、なんて大胆で悪い女でしょう。旦那さまの言葉をうまく利用しながら、いい加減な嘘八百を並べ立てました。表で遊んでいるところを、見知らぬ女に連れて行かれたの、それから京へ行って育てられたの、継母にいじめられたの……と、まことしやかな作りごとをして、旦那さまをはじめ皆さんをいいように騙してしまい、とうとうこの家へ乗り込んだのでございます。思えば、一から十までわたくしが悪かったのでございます。どうぞ御勘弁を願います!」

彼女は前髪を畳にすり付けながら泣きました。

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