初級翻訳・童子 第2話

室生 犀星

毎日3回も、お忙しいのにミルクを分けていただいて、本当に感謝しています」

お母さんはそう言って、赤ちゃんが眠っている部屋へと案内しながら言いました。

「とにかく、一度この子を見てやってくださいな。こんなに丸々と太って元気なんですよ」

「まあ、本当に丸々と太って、可愛いこと……」「そうですよ」と、四十歳近いその女性は言いました。「どんなお子さまでしょうね、と毎日うわさをしていたんですよ。それにどうしましょう、こんなにお可愛らしくて……妹が『今日こそ行って見てみたい』と聞かないものですから」

彼女は、恥ずかしがっている妹の方を振り返って言いました。

「そんなこと、私は言わなかったわ」

妹の女性は、ぶっきらぼうにそう言って、赤黒い顔をさらに赤く染めました。

「これで私も、なんだか安心いたしました。ずっと気にかかっていたものですから」

小さな唇をきゅっと引き締めるようにして、勝ち気そうな顔をしたその女性は立ち上がり、玄関へと向かいました。

彼女たちが帰ったあと、私たちはみんなで話し合いました。

「きっと、気になって気になって仕方がなかったんでしょうね」

そう言う夏さんに、私は「私だって気になっていたよ」と答えました。一日に三度も動坂(どうざか)へ通うのは、あまりに人手が足りなかったからです。もう少し近ければいいのに、とみんなで言い合いました。

それにしても、なかなか決まらなかった乳母の件ですが、しびれを切らして急かしたところ、「明日はきっと連れて出かけます」という返事の電報が届きました。

その日、乳母は、六十歳くらいの母親と、紹介所の爺さんと一緒にやってきました。私はその紹介所の爺さんの顔を見た途端、すぐに目を伏せてしまいました。上を向いた鼻と、日焼けした脂ぎった顔を見た瞬間、「嫌なやつだ」と直感的に感じたからです。

「月給は三十円くらいにしていただきましてな。それを半年分先払いで。それから私の紹介手数料は十五円いただきますよ」

そう切り口上を言うと、乳母の母親の方に向き直り、よく聞き取れるように言いました。

「これだけ言えばわしの役目は済んだのだから、あとはお母さんがよく娘さんに話をしなさい」

爺さんは今度は老母のわきに座り、緊張して硬くなっている健康そうな娘に向かって言いました。

「こうして話が決まったのだから、気に入らないことがあっても、わがままを言って帰ったりしてはいけないよ。せっかく縁があって来たのだからな」

そう言うと、母親が小さな膝を娘の方へ向けました。

「一年くらいの間だから、よく辛抱をするんですよ。ときどきわしは会いに来るし、つむぎ屋さん(紹介所)には万事おまかせしてあるからね……」

目が丸い、二十一、二歳くらいのその娘は、その間ずっとうつむいたままで、一言も発しませんでした。膝の上に乗せた指先で自分の肌を突っついているようで、なんとなくしぶとい性格の人間のような気がしました。

「肝心のお乳を、お医者さんに診てもらわないと困りますね。お願いするにしても、それが気にかかりますから」

先方のペースで話が進んでしまいそうだったので、私は爺さんの顔を見ながら言いました。

「乳のことは千葉のお医者さんでも診てもらってきましたが、大丈夫だそうです。もっとも、お宅でももう一度試験していただければ、なお結構です」

爺さんの言葉に続いて、母親も言いました。

「この子は近頃、病気一つしたことはございません。この通り頑固な体をしておりますから、心配はございませんよ」

母親は娘の方を見て、この話が乳の検査のことで壊れてしまわないかと、いくらか不安そうに言いました。

「では、試験管にでもしぼっていただいて、すぐに樋口さんに見てもらいましょう。……ちょいとこちらへ入ってください」

妻は乳母を勝手(台所)へ連れて行き、そこで管に入れたミルクを平林くんが医者のところへ持っていきました。

「早稲田の方にも一軒回らなければなりませんから、事の決まり次第、失礼いたしますよ」

爺さんは契約書と紹介料を私から受け取ると、大きな財布にしまい込みました。何しろこの頃は乳母になる女がいなくて仕事が骨が折れる、などと言っています。

「二、三日、別に悪いものも食べていませんから、乳が悪いはずはありません」

母親は、使いの者が帰ってくるまで、そんなことを言い続けていました。乳母の娘は、膝を固くして窮屈そうに座り、肩で息をついて居心地が悪そうにしていました。堅気な奉公をしたことがない女のように、ときどき私や妻の方を盗み見る瞳が素早かったのが印象的でした。

やがて平林くんが帰ってきました。

「乳には別に悪いところはないそうです」

そう言って、お医者さんからの証明書のようなものを持ってきました。妻も私もほっと胸をなでおろしました。

「よく使った体ですから、よい乳が出るはずです」

爺さんは身支度を整えると、「じゃあお母さんは明日にでもまたお伺いして、お金のことを決めるといい。わしは急ぐから」と付け加え、一緒に帰るという母親を連れて玄関へ出ました。

「なるべく汁気の多いものをいただいて、そして自分の家だと思っていないと、乳というものは不意に止まることがあるものだから」

乳が止まることがあると聞いて、乳母は胸へ手を当て、目を丸くしました。

「ともかく明日、私がまた来るから、そのときに様子を見てあげよう」

爺さんと老母が帰ったあとで、妻は「すぐに乳を赤ん坊にやっておくれ」と言いました。もらい乳ばかりしていた赤ん坊は、ゴムの吸い口とは全然感触の違う、柔らかくて、いくらか頼りない乳母の乳首を口に含みました。私は、悪いべっこう色をした乳母の胸肌を、いい気持ちで見ることができませんでした。「おいしいでしょう。ほら、たんと出るでしょう」

妻はその指先で、乳母の乳房を上から少し押すようにして、余計に流れ出るようにしました。乳母は、上から赤ちゃんの、うす毛の生えた頭をのぞきこんでいました。夏さんも平林くんも、そして私も、赤ん坊が乳母の乳首に慣れてくれればいいと願っていました。

けれど、赤ん坊はすぐに乳首を離して泣き出しました。すぐまた乳首をくわえさせても、ちょいと口に含んだだけで、また離して泣いてしまうのです。

「おかしいわね、出ないのかしら。指先でしぼってみて」

今度は、乏しい乳がほんの少し出ただけでした。いくらやっても同じことでした。乳母は顔を真っ赤に染めました。しばらくしてから、

「もう一度やってみてください」

そう妻が言いかけ、赤ん坊の口を乳首に近づけても、もう吸い付こうとはしませんでした。

「空の乳首をくわえさせてみるといい」

私がそう言うと、妻はすぐに空の乳首を与えました。赤ん坊は、ふんとした様子でそれをなめ、くろぐろとした瞳を静めて泣きやみました。

「どうして出ないんでしょう」

乳母は焦るあまり、強くしぼるほどに乳はほんの少ししか出ませんでした。

「毎日捨てるほど出ていた乳なんですけれど」

そう言って、乳房をぐりぐりと絞りました。そうしている乳母の額には、汗さえ滲んで見えました。

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