「じゃあ、ちょっと待ってくださいな」と、御作さんはまた奥へ駆け込みました。
その間に旦那は楊枝を使い始めていました。
御作さんは用箪笥(ようだんす)の引き出しから小さな熨斗袋(のしぶくろ)を出し、中に銀貨を入れて持って出てきました。
旦那は口が使えない状態だったので、黙って袋を受け取ると、格子をまたいで出て行きました。
御作さんは旦那の肩の後ろに、手拭いの端がぶら下がっているのをしばらく眺めていましたが、やがてまた奥へ引っ込むと、鏡台の前に座って、もう一度自分の姿を映しました。
それから箪笥の引き出しを半分開けて、少し首をかしげました。
やがて、中から何か二、三点取り出して、それを畳の上に置いて考えました。
ですが、せっかく出したものを一つだけ残して、あとは丁寧にしまってしまいました。
それからまた二番目の引き出しを開けました。
そしてまた考え込みました。
御作さんは、考えたり、出したり、またしまったりするのに約三十分ほど費やしました。
その間も、始終心配そうに柱時計を眺めていました。
ようやく衣装をそろえて、大きなウコン染めの木綿の風呂敷に包み、座敷の隅に押しやると、髪結いさんが驚いたような大きな声を出しながら勝手口から入ってきました。
「どうも遅くなってすみません」と、息を切らせて言い訳をしています。
御作さんは「本当に、お忙しいところを申し訳ありませんでしたねえ」と、長いキセルを出して髪結いさんに煙草を勧めました。
髪結いさんが来るのが遅かったので、髪を結うのにはずいぶんと時間がかかってしまいました。
旦那は銭湯に入って、髭を剃って、やがて帰ってきました。
その間に、御作さんは髪結いさんに、「今日は美いちゃんを誘って、旦那に有楽座へ連れて行ってもらうのよ」と話しました。
髪結いさんは「おやまあ、私もご一緒したいものだわ」などと、ずいぶんとお世辞を言った末、「どうぞごゆっくり」と言って帰っていきました。
旦那はウコン染めの風呂敷を少しめくって見て、「これを着て行くのかい。これよりか、この間のほうが君には似合うよ」と言いました。
「でも、あれはもう暮れに、美いちゃんのところへ着て行ったんですもの」と御作さんが答えました。
「そうか、じゃあこれがいいだろう。俺はあっちの綿入れ羽織を着て行こうか、少し寒いようだね」と旦那がまた言い出すと、「やめてくださいよ、みっともない。いつも同じものばかり着て」と、御作さんは絣(かすり)の綿入れ羽織を出そうとはしませんでした。
やがてお化粧が出来上がり、流行の鶉縮緬(うずらちりめん)の道行(みちゆき)を着て、毛皮の襟巻きをして、御作さんは旦那と一緒に表へ出ました。
歩きながら旦那にぶら下がるようにして話をします。
四つ角まで出ると、交番のところに人が大勢立っていました。御作(おさく)さんは旦那さんのマントの端っこをぎゅっとつかんで、背伸びをしながら人混みの向こう側を覗き込みました。
人だかりの真ん中には、印半纏(しるしばんてん)を着た男の人が、立っているのか座っているのか分からないような格好で、だらしなくうずくまっています。
泥の中に何度も転んだのか、ただでさえ色がくすんでいる半纏はびしょ濡れになって、寒々しく光っていました。
巡査が「お前は何者だ!」と聞くと、男はろれつが回らない舌で「お、俺は人間だ!」と威張って答えます。
そのたびに、周りのみんなが「わはは!」と笑い出しました。
御作さんも旦那さんの顔を見て、つられて笑いました。
すると酔っ払いは納得がいかない様子で、怖い目つきで周りを見回しながら、「な、なにがおかしいんだ。俺が人間なのが、どこがおかしいっていうんだ!」と怒り出しました。
「こう見えたってな……」と言いかけて首をだらりと垂れたかと思うと、突然思い出したように「人間だい!」と大きな声で叫びます。
そこへ、同じく印半纏を着た、背が高くて顔の黒い男の人が、荷車を引いてどこからかやって来ました。
人混みをかき分けて巡査に何かひそひそと話していましたが、やがて酔っ払いに向かって「さあ、野郎、連れて行ってやるからこの上に乗れ」と言いました。
酔っ払いは嬉しそうな顔をして、「ありがてえ」と言いながら荷車の上にどさりとあおむけに寝転がりました。
明るい空を見上げて、しょぼしょぼした目を二、三度パチパチさせていましたが、「へん、こう見えたって人間でえ」とつぶやきました。
「うん、人間だ。人間だからおとなしくしているんだぞ」と、背の高い男は藁(わら)の縄で酔っ払いを荷車の上にしっかりと縛り付けました。
そして、まるで屠(ほふ)られた豚のように、ガラガラと音を立てて大通りを引いていきました。
御作さんは、マントの端をつかんだまま、飾り窓の間を向こう側へと運ばれていく荷車の後ろ姿を見送りました。
そして、これから美いちゃんのところへ行って、この話を自慢できるネタが一つ増えたことを嬉しく思いました。
山鳥
五、六人で集まって火鉢を囲みながら話をしていると、突然一人の青年がやって来ました。
名前も聞いたことがなく、会ったこともない、全く知らない男の人です。
紹介状も持たず、取次ぎの人を通して会いたいと言うので座敷へ招き入れると、青年は大勢がいる部屋の中に、一羽の山鳥を提げて入ってきました。
初対面の挨拶を済ませると、その山鳥をみんなの真ん中にポンと置いて、「国から届きましたので」と言って、その場のお土産にしてくれたのです。
その日はとても寒い日でした。
みんなですぐに山鳥のスープを作って食べることにしました。
山鳥を料理する時、青年は袴(はかま)姿のままで台所に立ち、自分で毛をむしり、肉を切り分け、骨をトントンと叩いてダシをとってくれました。
青年は小柄で面長な顔立ちをしていて、青白いおでこの下で、度の強そうな眼鏡がキラリと光っていました。
でも、その時一番目立っていたのは、彼の近視の目でも、薄い口髭でもなく、彼が穿(は)いていた袴でした。
それは小倉織という生地で、普通の学生ならまず持っていないような、太い縞模様の派手なものでした。
彼はこの袴の上に両手を置いて、「自分は南部の出身です」と話しました。
青年は一週間ほど経つと、またやって来ました。
今度は自分で書いた原稿を持っていました。
あまり上手にできていなかったので、遠慮なくそのことを伝えると、「書き直してみます」と言って持って帰りました。
それから一週間後、また原稿を懐に入れてやって来ました。
そんなふうに、彼は来るたびに必ず何か書き物を持ってきて置いていくのです。
中には三冊続きの大作もありました。
でも、それが一番出来の悪いものでした。
私は彼が書いたものの中で、一番マシだと思えるものを一、二度雑誌に紹介してあげたことがあります。
けれど、それは編集者のご好意で載せてもらっただけで、一銭の原稿料にもならなかったようです。
彼が生活に困っていると聞いたのは、ちょうどその頃でした。
彼はこれから文章を売って食べていくつもりだと言っていました。
ある時、彼は変わったものを持ってきてくれました。
菊の花を干して、薄い海苔(のり)のように一枚一枚ペラペラに固めたものです。
コメント