初級翻訳・金魚撩乱 第4話

岡本 かの子

初めのうちは、すっかり大人びて女性の魅力が溢れるようになった彼女の、ちょっとした体の動き一つにも、復一は自分の中の理性がかき乱されそうな怖れを感じ、皮膚の感覚を鎧のように固めて用心しなければなりませんでした。
しかし、そのうちに復一の心の内から何かが溶け出していき、「おや」と思ったときには、いつの間にか自分から心の壁を解いて、真佐子の醸し出す雰囲気の中に漂うことを楽しむようになっていました。
すると、街の明かりも、通り過ぎる人々の姿も、まるで香水の湯気を通して見ているかのように甘くぼやけていき、いよいよ自分の意識が頼りなくなっていきました。
それでも復一には、まだ何か焦るような抵抗心が心の底に残っていて、それが彼を二、三歩、真佐子から歩き遅れさせていました。
復一は、真佐子と自分をできるだけ客観的に眺めていたいと思っていたのです。復一の目には、真佐子の少し抜き衣紋(えもん)気味に着こなした襟元から、アイルランド麻のレースの下着が清楚に覗いているのが見えました。そこから、テラコッタのように完璧な円筒形をした首筋へ、そしてうなじのくぼみへと視線を移す間に、つきたてのお餅のように柔らかく、ふっくらとした肉の美しい小山が目に飛び込んできました。
「この女は、女性としての肉体的な魅力を、余すところなく備えてしまった」
ああ、と復一はかすかなため息をもらしました。
彼は真佐子よりずっと背が高かったのです。
彼は、真佐子を執拗に見つめてしまう自分を恥じ、また、自分には到底及ばない存在に対する切なさを紛らわせるために、顔を横に向け、路地の突き当たりに暗い影を落とす山王の森へと視線を逃がしました。
「復一さんは、どうしても金魚屋さんになるつもりなの?」
真佐子は、隣に復一がいるものだと思い込み、何気なく相手のいない側を向いて尋ねました。
一歩遅れていた復一は、慌てて彼女の横へ歩み寄りました。
「もう少し気の利いた職業に就きたいのですが、今の僕の事情ではそうも言っていられそうにありません」
「張り合いのないことを言うのね。あたしがあなただったら、喜んで金魚屋さんになるわ」
真佐子は、どこか遠くを見つめるような、彼女が一番真面目な時特有の表情をして復一を見ました。
「生意気なことを言うようだけれど、人間に一番自由に美しい生き物を作れるのは、金魚じゃないかしら」
復一は不思議な気持ちになりました。
これまでこの女性に対しては、大らかで贅沢な家庭で育った品格のようなものしか感じていなかったのに、彼女の口から人生の価値に関わるような、批評めいた精神的な言葉を聞いたからです。
今この散歩の途中で思いついたことなのか、それとも、多少は考えていたことなのか。
「それは、確かにそうかもしれませんが、やっぱり所詮は金魚ですからね」
すると真佐子は、夢見るような顔つきの中で、特に煙るような瞳を黒く強調させて言いました。
「あなたは金魚屋さんの息子さんのくせに、本当の金魚の値打ちを知らないのね。金魚のために人間が命を落としたり、人生を台無しにした例がいくつもあるのよ」
真佐子は、父から聞いた話だと言って語り出しました。
その話は、金魚屋に育った復一の方が、おぼろげに話す真佐子よりも詳しく知っていたのですが、真佐子の口から聞かされると、なんだかその価値が改めて復一の心に刻まれるようでした。
事実は概ねこうです。
明治二十七、八年の日清戦争の前後から、日本の金魚鑑賞熱は急速に高まりました。
専門家たちは、この機に乗じて金魚商の組合を作ったり、アメリカへの輸出を試みたりしました。
進歩的な金魚商たちは、特に異種交配によって珍しい新種を作り出し、鑑賞の需要を広げようとしました。
都下砂村の有名な金魚商である秋山は、蘭鋳(らんちゅう)からその勇ましい頭の肉瘤(にくりゅう)を、琉金(りゅうきん)のような体つきの円やかな美しさと房のような尾を受け継ぎ、頭も尾も完璧な新種を得ようとする、ほとんど奇跡に近い努力を始めました。改良に改良を重ね、八年の努力の末、ようやく目的の金魚を手に入れたといいます。
あの名魚「秋錦」の誕生は、そんな混沌とした初期の時代のことでした。
素人の熱心な飼育家も数多く現れました。
育てた美しい魚を競って品評会に出したり、番付を作ったりもしました。
そのための設備の費用や、人間関係の付き合い、さらには間に入って悪巧みをする金魚ブローカーなども現れ、金魚のために――たかが飼育用の金魚のために家産を傾け、身を持ち崩して悲惨な末路をたどった愛魚家も少なからずいました。
ある愛魚家は、当時としてはほとんど狂気とも言えるほどの情熱で、あらゆる金魚の長所を詰め込んだ理想の新魚を作ろうと、大掛かりな設備で取り組みました。
和金の清々しい顔つきと背中の盛り上がりを持ち、胸と腹は琉金の豊かさを保っている。
ヒレは神女の衣のように胴を包んでゆらめき、体色は塗りたてのような鮮やかな五色をまとい、何より欠かせないのは、スペインの踊り子のボレロのように、黒い斑点(ぶち)がコケティッシュな間隔で散りばめられていることでした。
超現実的に美しく、魅惑的なその金魚は、G氏の頭の中に描かれた夢の魚ではありませんでした。
交配を重ねるにつれ、次第に現実の姿を備えてきたのです。
しかし、そのうちにG氏の頭の方が、先に夢幻の世界へと飛んでいってしまいました。
彼は財産を使い果たすと同時に、まるで白痴のようになって行方知れずになりました。
「かぐや姫!」
G氏は、自分が作り出すはずだったその名魚を呼びながら、乞食のような姿で、おびえた様子で去っていったのです。
未完成の奇形な金魚と、そんな逸話だけが飼育家仲間に残されました。
「Gさんという人が、もし狂人みたいにならないで、しっかりした頭でどこまでも科学的に研究し、そんな理想の金魚を作り出していたら、まるで英雄のように勇気ある偉い仕事をした人だと思うわ」
そして、絵画や彫刻や建築とは違って、とにかく生き物という生命を材料にして、恍惚とするほどの美しい創造物を水の中に生み出そうとすることは、なんと素晴らしい芸術的な神業だろう、と真佐子は言葉を尽くして、復一がこれから進もうとする道を称賛するのでした。真佐子は、霊南坂まで歩いてくると、そこにあるアメリカンベーカリーへ入るまで、復一を勇気づけるように語り続けました。
二階のフロアでは、一、二匹の蛾がシャンデリアの澄んだ明かりのまわりを、かすかで淋しい、悩みのような羽音を立てて飛び回っていました。
その真下のテーブルで二人は静かにお茶を飲みながら、今度は逆に復一が尋ねました。
「僕のことはともかく……。真佐子さんはどうするつもりなの? あなた自身のことについて、どう考えているんだい。あなたはもう学校も卒業したし、こんなに美しくなって……」
復一は、さすがにそれ以上言い淀んでしまいました。
すると真佐子は、ふわふわと漂うような白い顔に少し恥じらいを含ませ、両袖を合わせるようにしながら言いました。
「あたしのこと? あたしは多少美しい娘かもしれないけれど、平凡な女よ。

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