今日も復一は、ようやく色が変わり始めた小さな金魚の赤ちゃんを、一匹、また一匹と網ですくい上げては、拡大鏡でじっくりと観察していました。しかし、ため息をついてこうつぶやきます。
「今年も失敗か……。今年も、思い通りの金魚は作れそうもないな」
復一は皿と拡大鏡を縁側に放り投げると、表情ひとつ変えずに、そのまま仰向けにどさりと倒れ込みました。
縁側から見える谷間の景色は、今まさに新緑の真っ盛りです。木の葉と呼ぶにはあまりに華やかで、梢(こずえ)は、新緑をベースにした紅茶のような色から、少し紫がかった若葉まで、まるで五色に染め分けた布を広げたように揺れています。その葉が風に揺れるたび、滑らかな崖の赤土が反射して、金屏風のようにキラキラと輝いていました。
五、六丈(約15〜18メートル)もある高い崖のあちこちには、霧島つつじが咲き誇っています。崖の足元を囲む竹やぶの陰にはじめじめとした草むらがあり、季節の終わりの桜草や、早咲きの金蓮花(きんれんか)が、小さな川の岸辺までまばらに咲き続いていました。
この小川は谷から湧き出る自然の水で、復一のような金魚屋にとっては、何より大切な商売の命綱です。復一はその水をいくつもの水路に分けて、七つ八つの金魚池を作っていました。池の中には、すだれで覆ったものもあれば、そのまま日にさらしているものもあります。
崖の反対側にある道路の石垣の下では、大きな溝が力強い音を立てて流れていました。こちらは町の汚れを集めているので、水は濁っています。
復一が六年前、地方の水産試験所を辞めて、この金魚屋を継ぐために育ての親たちの元へ戻ってきたときも、ちょうどこの谷間に晩春の花々が咲き残っている時期でした。
復一は生まれてから地元の水産学校を卒業するまでこの地で育ったはずなのに、戻ってきて初めて、「東京の山の手の奥深くに、こんな桃源郷のような場所があったんだな」と気づいたのです。そして、この谷間の金魚屋の主人になることを心から喜びました。
しかし、六年経った今では、この柔らかな景色や水の音を聞いても、むしろ頑なになってしまった自分の心が、ますます乾いていくような気がしてなりません。
彼は表情のない目で、ふと崖の上を見上げました。
崖の上の広大な庭園の端には、ロマネスク様式の半円形の祠堂(しどう)があります。柱の一本一本が六月の太陽を浴びて、鮮やかな紫バラ色の影をくっきりと落とし、その柱の隙間からは高い青空がのぞいていました。白い雲が、まるでその円柱を土台にしているかのように、ゆったりと空を流れていくのが見えます。
今日もその祠堂の中央にある腰掛けには、崖の上の屋敷の奥様、真佐子が豊かな体をゆったりと横たえ、胸いっぱいに日光を浴びていました。彼女の膝の上には、遠目にも糸が絡まった編みかけの何かが乗っており、その横には、うっとりとした表情の女の子が寄り添っています。
それは、復一の今の心境とは全く無縁の、幸福そのもののような光景でした。
真佐子は目がかなり悪いはずなので、こちらの姿は見えていないでしょう。しかし、復一にとっては毎日見慣れた光景であり、特に心を揺さぶられるわけでもありません。それでも、嫉妬なのか、羨望なのか、あるいは未練なのか――とにかく、この光景に何らかの感情をぶつけて心をかき立てなければ、自分の心が動いているのか止まっているのかさえ分からなくなるような、そんな男に復一はなってしまっていたのです。
「ああ……今日もまた、この光景を見なきゃいけないのか。自分とは全く関係のないところで、堂々と生きている女。自分にはどうしても諦めきれない女……」
復一はむっくりと起き上がると、タバコに火をつけました。
その昔、「崖の上のお嬢さん」と呼ばれていた真佐子は、あまり目立たない少女でした。口数が少なく、いつも俯いてばかりいて、癖でよく片方の唇を噛んでいました。母親を早くに亡くし、父親に育てられた一人娘だったので、周りからは少し寂しげな子に見えたのかもしれません。
真佐子本人は、何か深く思い悩んでいる様子もありませんでしたが、周りの出来事に対して、反応がとてもゆっくりとした子でした。
復一の家へ小さなバケツを持って一人で金魚を買いに来た帰り道、もし子犬に追いかけられたりすると、彼女は慌てている割には、どこかちぐはぐな動きをするのです。それでも逃げ出すときは、必要以上に安全な距離まで逃げてからようやく落ち着き、そのあとで今更のように「怖かった」という感情を、瞳の中にキラリと光らせるのでした。
その無邪気で丸い目と、独特の動きを見て、復一の育ての親である宗十郎は、大事なお客さんの娘だから大きな声では言えないけれど、と断りながら、「まるで金魚の蘭鋳(らんちゅう)みたいだな」と笑ったものです。
崖の下に住む金魚屋の一家は、漠然とした身分意識から崖の上の屋敷の人々に反感を持っていました。そのため、復一が小学校の行き帰りに、近所の子供たちと一緒に真佐子を目の敵にして意地悪をしていても、親たちはあまり注意しようとしませんでした。
たまに屋敷から女中さんがやってきて文句を言いに来ると、その場では「すみません」と謝るふりをして、女中が帰ってしまうと、親たちはまるで他人事のように、復一を叱るどころか、振り返りもしなかったのです。
それをいいことに、復一のねじれた意地悪はだんだんひどくなっていきました。子供にしては大人びた、女の貞操を疑うような言いがかりをつけて、真佐子を困らせるようになったのです。
「おい、お前、今日の体育の時間に、男の先生に脇の下から手を入れられて、腰巻がずれたのを直してもらったんだろ?」「男の先生にさ……なんてけがらわしい奴だ」
「おまえは今日、鼻血を出した男の子のところに駆け寄って、紙を二枚もあげただろう。怪しいぞ」
そしてしまいには、必ずこう言い放ちました。
「おまえはもう、だめだ。お嫁に行けない女だ」
そう言われるたびに真佐子は、取り返しのつかない絶望に突き落とされたかのような、青ざめた顔で復一をじっと見つめました。
深みのある青い色をした、目尻の下がった大きな瞳には、困惑こそあれ、敵意や反抗の色は微塵もありませんでした。
涙があふれ出るまで、真佐子は突き刺さる言葉の棘(とげ)がもたらす苦痛を、魂の奥底にまで染み込ませているような瞳の据え方をしていました。
やがて真佐子の顔が激しく引きつると、月の出のように真珠色の涙が下まぶたからあふれ出ました。
真佐子は袖で顔を覆うと、くるりと後ろを向きました。
歳相応に大柄な背中が、声もなく波打っています。
復一は、自分の体中に熱くこもっていた少年期のどうしようもない苛立ちが、一瞬で吸い散らされたような感覚を覚えました。
代わって、舌鼓を打ちたいほどの甘い哀愁が、復一の胸を満たしました。
復一は、それ以上の深い意志などなかったにもかかわらず、大人の真似をして言いました。
「もっと女らしくしろ。お転婆!」
それでも真佐子は、よほど金魚が好きなのか、復一にいじめられたことなどすぐにケロリと忘れた様子で、金魚を買いにやってくるのでした。
両親と一緒に真佐子がやってきたときは、復一は彼女をいじめませんでした。
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