初級翻訳・銀の匙 第37話

中 勘助

木霊も声をひそめて、親しい歌い手たちの静かな時間に水を差すことはありませんでした。晩ごはんの食卓には真っ白なテーブルクロスがかけられ、ばあやは横に、姉様と私は向かい合って座りました。
恥ずかしいような、嬉しいような、寂しいような、悲しいような、そんな気持ちです。
「さあ、どうぞ」
姉様は軽く頭を下げて、
「お料理人が慣れておりませんで……。お口に合いますでしょうか」
と少しはにかむようにして、お皿の上の料理に視線を落としながら微笑みました。
そこには手作りの豆腐がふるふると震えていて、真っ白な肌に模様の藍色がしみていくようです。
姉様は柚子の皮をおろしてかけてくださいました。
浅い緑色の粉がはらはらとふりかかり、とろけそうな豆腐を箸でそっとつゆに浸すと、濃い海老色がさっと広がります。
それをそっと舌に乗せます。
静かな柚子の香り、キリッとした醤油の味、冷たく滑らかな手触りが口の中に広がります。
それを舌の上で二、三度転がすうちに、かすかな澱粉の風味を残して溶けていきました。
別の皿には、少し小ぶりの小鰺が尻尾を並べて跳ね返るような姿で盛られています。
ぜんごの跡が栗色に、背中は青く、お腹の方はキラキラと光って、この魚特有の温かみのある匂いがします。
よく締まった身をむしり取って汁に浸して食べると、こってりとした旨味が広がりました。
食器が下げられたあと、果物が出てきました。
姉様は大きな梨の中から甘そうなものを選び出し、皮をむき始めます。
重たい梨を落とさないよう、指先に力を込めて、笙(しょう)の笛のような形を作ります。
その長く反った指の間で梨がくるくると回され、白い手の甲を越えて、黄色い皮が雲の形のようにくるくると剥がれていきます。
はたはたと雫が垂れるのを、姉様は「自分はあまり好まないから」と言って、お皿に載せてくださいました。
それを切り分けて口に入れながら、私は美しいさくらんぼが姉様の唇に軽く挟まれ、小さな舌の上にスルスルと転がり込む様子を眺めていました。
貝殻のように形の良い唇が、ふくふくと動きます。
姉様はいつになく快活でした。
ばあやも、しきりにはしゃいでいます。
そして、人の歯の数を当てる遊びをしようと言い出し、子供がよくするように姉様の背中に顔を隠して長いこと考えてから、
「親知らずを除いて二十八本ありますよ、ねえ」
と言いました。
「二十八本なんて、誰でもそうだよ」
と言うと、
「どうしてそんなことが。お釈迦様は四十何本もあらせられたのに」
と言って、いつまでも納得しません。
そのとき、姉様の口元が気持ちよく上がり、美しい歯が見えました。
それから話の流れで鳥の話になったとき、ばあやは言いました。
「わたしの国の山には白鷺がうようよいました。雁も来たし、鴨も来た。鶴の群れもたくさん来ました。毎年決まって真名鶴(まなづる)が一組来るのですが、それが来ると殿様に言上することになっていたんです。鸛(こうのとり)は首を回して鳴くのですよ。鎮守の森の大杉にかけたその巣は、小枝を組んで籠のようになっていて……」
と調子に乗って次から次へと話すので、それがいつのことかと尋ねると、
「わたしの子供の頃ですよ」
と言います。
「それじゃあ、もういないだろう」
と言うと、
「あの、いたんですってば。それに毎年子供を産んでいましたよ」
と頑強に主張します。
美しい口元がきりっと上がり、また白い歯が見えました。
翌朝に出発するはずだったのが、何かの都合で晩に延びました。
夕方、お風呂から上がると、ばあやは使いに出たらしく部屋が暗くなっていたので、私は花壇へ出ようとしました。
そのとき、離れの円窓から、
「灯りをちょっと拝借いたしました」
という声がして、姉様が盆に水蜜桃(すいみつとう)を載せて、お別れの挨拶に来られました。
「ご機嫌よう。また京都の方へお越しのこともございましたら、どうぞ」
私は庭へ降りて花壇の腰掛けに座り、海の方へ、海の方へと巡っていく星を眺めていました。
遠い波の音と、虫の音と、天と……それ以外には何もありません。
ばあやが人力車を雇ってきました。
姉様が支度の済んだ綺麗な姿で、灯りを返しに私の部屋へ小走りに向かわれるのが見えました。
やがてばあやが荷物を運び出すあとから、姉様は縁側を玄関の方へと通りながら、私の方へ小腰をかがめて、
「ご機嫌よう」
と言われたのを、なぜか私は聞こえないふりをしていました。
「さようなら、ご機嫌よう」
私は暗いところで黙って頭を下げました。
人力車の響きが遠ざかり、門の閉まる音がしました。
私は花に隠れて、止まることなく流れる涙を拭いました。
私はなぜ、なんとか言わなかったのだろう。
どうして一言、挨拶をしなかったのだろう。
私は肌が冷え切るまで花壇に立ち尽くし、昨夜よりもいっそう形が欠けた月が、山の向こうから差し掛かる頃にようやく部屋へ帰りました。
そうして力なく机に両方の肘をついて、頬のようにほのかに赤らみ、貝殻のようにふっくらとくびれた水蜜桃を、手のひらでそっと包むようにして唇に当て、その濃い肌を通してもれだす甘い匂いを嗅ぎながら、また新たな涙を流しました。

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